主の御腕が現される原則

 さて、最初の質問に戻ることにします、「主の御腕が現される原則は何でしょう?」。すでに述べたように、私たちは「自分はイザヤ書五十三章をよく知っている」と思い込んでいます。しかし、この章を読むとき、たいてい私たちはこの章が示している方の悲しみ、苦難、贖罪に関する鮮やかな描写の言葉に熱中します。このエホバの苦難の僕のパースンと経験に夢中になります。そのため、「誰に主の御腕は現されるのか?」という冒頭の問いかけの途方もない意義を、まったく見失ってしまいます。しかし、この問いかけがなければ、この章全体にはほとんど何の価値も意義もなかったでしょう。これについてもう一度考えてみて下さい。ここに記されていること――彼の苦難、彼の悲しみ、彼の贖罪――がすべて実現したとしても、もし彼のために主の御腕が現されなければ、いったいそれに何の価値があるというのでしょう?それは実現しました――しかし、その正しさの証拠はどこにあるのでしょう?それに対する神の判決は何でしょう?

 ですから、この章の内容は途方もないものであり、その悲劇は圧倒されるほど感動的なのですが、それはみな、「誰に主の御腕は現されるのか?」というこの一つの問いと関係しているのです。その答えは、「主の御腕は、この章がこのように鮮やかに描写している方に対して現される」というものです。主の御腕はこの御方に対して現されます。この章は、豊かで情け深いこの御方を見せていますが、この御方はこのあらゆる悲劇、苦しみ、誤解、偽りを被ります。この御方に対して、主の御腕は現されるのです。

 預言者はこの知らせ、この宣べ伝えに対する全世界の反応を見ます。イスラエルや異邦人も同じ反応を示します。「誰が私たちの知らせを信じたのか?」と彼は尋ねます。「私たちが宣べ伝えた知らせを誰が信じたのか?」。この知らせはすべて、人の子の日を仰ぎ見るものです。使者は出ていって、これを宣べ伝えました――それは何という宣べ伝えだったことでしょう!この知らせはペンテコステの日に宣べ伝えられ、エルサレムからその周辺の領域全体に広まりました。しかし――誰がその知らせを信じたのでしょう?その知らせに対するイスラエルや異邦人の反応はどのようなものだったでしょう?預言者は、この福音の知らせに対するこの世の様々な反応について、霊感により予め鮮やかに知っていましたし、それに対する洞察力も持っていました。彼はこの問いを発して、この章全体を使ってそれに答えます。しかし、彼は「誰に主の御腕は現されるのか?」とも問うています。この世はこのように反応しました。大多数の人はこの知らせを拒み、拒絶して、この受難の僕の苦しみについてまったく間違った解釈を造り上げました。それにもかかわらず、この御方に対して主の御腕が現されます。この御方の傍らにエホバは立たれるのです。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ