主は再び御腕を現されるのか?

 この三つの特徴が確かに今日定着しています。ですから、今は主の御腕が一度ならず現されるべき時ではないでしょうか?「誰に主の御腕は現されたのか?」。前の時と同じように、ついに主の御腕は再び現されることになる、という期待を正当化する根拠は聖書の中にあるのでしょうか?私たちの祈りと期待を支持する根拠はあるのでしょうか?確かにたくさんあります!例えば、ペンテコステの日にペテロはヨエルの預言から引用しました。しかし、引用を終える前に、彼は途中でやめました。そして、その日、この預言はあるところまでしか成就しなかったのです。この預言の成就は御霊の傾注まででした。ペテロは、「これは預言者ヨエルが語ったことです」(使徒二・十六)と言いました。しかし、ペテロが数節引用したヨエルの預言は、その日に完全に成就されたわけではありませんでした。使徒の働き二・十九~二十一をもう一度見るなら、この同じ預言には何か強力な事柄がいくつか含まれていたこと、そしてそれは後の日のためにペンテコステの日には保留されたことがわかります。それらの事柄は別の時のために保留されているのです。

 また、次の出来事をあなたは覚えておられるでしょう。主イエスは御霊の力を帯びて荒野から戻ると、ナザレに行き、安息日に会堂に入られました(ルカ四・十六~十九)。すると、巻物が彼に渡され、彼はイザヤ書六十一章を開いて読み始めました。しかし、その預言を読み終える前に、あるところで彼は中断されました。「……主に受け入れられる年」という言葉で彼は中断して、お座りになりました。彼は「私たちの神の復讐の日」という言葉で終えることはなさいませんでした。預言のその部分は読まなかったのです。その部分は保留されて、いまだに成就されていません。

 それから、マタイ二十四章二十九節以降のような節があります。この御言葉は主の再来の日、最後に何が起きるのかを示しています。この御言葉は、終末における主の御腕の現れと神の介入のしるしで満ちています。この節の言葉の中にはヨエルの預言の残りの部分と同一の言葉がいくつかありますが、これは印象的なことではないでしょうか?これらの事柄はまだすべて成就されたわけではなく、後の日のために差し止められているのです。

 黙示録についてはどう言えばいいのでしょう?この本に関する歴史的解釈、将来的解釈、他のいかなる解釈をあなたが採用したとしても、この書の焦点は完全に主の再来の日にあり、この事実からは逃れることができません。この書は主の介入に満ちています――主は教会生活の中に、諸国民の生活の中に、そして暗闇の王国の中に介入されます。そうです、御言葉の中には私たちの期待を正当化する箇所がたくさんあると思います。最後に、主の御腕が大いに現されることになるのです。


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