5.比較して勘定する原則(マルコによる福音書十二章四十一~四十四節、ルカによる福音書二十一章一~四節)

 この箇所では、献げた金額は大したことはありませんでしたが、問題は献げた後に何が残ったかです。支出がいくらだったかではなく、残高がいくらだったかが問題なのです。有り金をすべて献げるなどということは、私たちには到底困難なことではないでしょうか?それは信仰によってすべてを献げることではないでしょうか?それは代価を顧みない愛ではないでしょうか?どうしてキリストはこのやもめを大いに称賛して、神が大いに喜んでおられることを確証されたのでしょう?ナザレでは、やもめの母親と大家族が、聖書にしたがって献げ物を献げていたからです。市場で最も安いものをキリストがご存じだったのも当然です――二羽のすずめが一シリングで売られていましたが、二シリング払うと、一羽のすずめがおまけでもらえて、二シリングで五羽買えたのです。しかし、この犠牲により、律法にしたがって――キリストは律法を成就するために来られました――ついにこの日が到来しました。その日、生計を賄っていた長男であるキリストと、その兄弟の中の少なくとも一人が、家を離れて、気兼ねなく王国の働きに打ち込むことができたのです。これはたとえなのです。

 最後に、系統的に献げることの重要性と意義を忘れないようにしましょう。時々、場当たり的に献げるのでは、「あの人は気前がいい」と勘違いされるおそれがあります。自分の資産を注意深く系統的に切り分けて分配し、帳簿を明確かつ厳格につけておくなら、実際、私たちはもっと献げることができるようになりますし、もっと先に進めることがわかるでしょう。次に、神が私たちの献げ物を受け入れて下さるのは、私たちの生活が聖別されている時だけです。献げることも聖別されていなければならないのです。誰かが私たちに対して何か「恨み」を抱いているなら、それを解決しない限り、献げ物は祭壇の上に残ったままでなければなりませんし、残ったままでしょう。神が欲しておられるのは物ではなく、私たち自身です。さらに、私たちが行うことはみな、キリストの十字架に対する私たちの評価がその原動力でなければなりません。真の奉仕の動機と力は、私たちに対する主の愛を正当に評価することによって生じる愛です。かりに「全自然界」が私たちのものだったとしても、「それはあまりにもちっぽけな献げ物にすぎず」、「私たちの命、私たちの魂、私たちのすべて」だけが唯一十分な献げ物である、と本当に言うことができるでしょうか?

 これまでやや一般的な方法でこの問題について取り扱ってきましたが、これは大部分個人にあてはまることです。今、教会財政への適用について考えることにします。


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