モーセは自分の一生の仕事のために、無為という厳しい学校で訓練を受けました。大いに活動的な気質の人が、荒野で四十年間も羊を飼っていたのです!モーセは偉大な幻ビジョンを抱いて開始しました。彼の動機は正しく、目的も正当なものでした。しかし、その計画を行う方法が間違っていたのです。悪に出会う時、どうすればそれを見逃すことなく、また善に対する熱意を失うことなく、それを耐え忍ぶことができるのでしょう?これは人々を解放することを願う人々が学ぶべき重要な学課の一つです。人々のための奉仕に幻想を抱かないこと、「いずれ人々は自分の自己犠牲に感謝するようになるだろう」と思わないこと、しかもその期待が幻滅に終わっても皮肉屋にならないことは、またこれとは別の学課です。決していかなる方法、振る舞い、口調、行動によっても、優越感を示さないことは三番目の学課です。こうした学課はモーセが学ばなければならなかったささやかな学課ではありましたが、この学課自体は大きな学課だったのです。依存、信仰、従順、謙遜が主要な学課でしたが、こうしたものは本や講義からは修得できないものなのです。

 イザヤは、自分が不適格であることを思い知らされる幻を見なければなりませんでした。

 パウロは知的な聖職階級の伝統ある公的高台からズドンと落ち、塵の中で屈服して、かつては憎み軽蔑していた「イエス」に服従しなければなりませんでした。

 弟子たちは、自分の神聖な主人の御心を満足させることがまったく出来ない自分たちの惨めな能力の欠如に関して、多くの学課を学ばなければなりませんでした。そしてついに、弟子たちは十字架を通して、自分たちには信じることすらできないことを示される不名誉を被ったのです。

 これはみな必要な訓練であり、備えでした。このような訓練の過程を自発的に受け入れる人は何と少ないことでしょう!しかしこれが、神の僕たちを備えるために、ある地点でなされる働きの性質なのです。聖霊に委ねて、聖霊にこのような霊的訓練の経験をことごとく通らせてもらうことが、神を深く知るのに必要です。根底を打破して、働きや奉仕に関する私たちの観念から脱却することが必要です。すべては外面的ではなく、内面的なものにならなければなりません。天然的ではなく、霊的なものにならなければなりません。私たち自身からではなく、神からのものにならなければなりません。必要とあらば、無為の訓練を受けなければなりません。忙しく働いてさえいるなら、それでいとも容易に満足してしまうのです。しかし、それは神の道を邪魔するものであることがしばしばです。そのような時、神は私たちの働きを脇にやって、それは神ご自身がなさることであり、そのような奉仕によってではないことを、私たちに教えなければなりません。多くの人について、主は使い古された方針を受け入れることを余儀なくされています。彼らがそれ以外は受け入れようとしないからです。


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