模範的僕

 模範的僕である主イエスは、「私は自分からは何も行いません。私は聞くままに話すのです」。「私が話す言葉は、私が自分から語っているのではありません」。「私が行う業は、私が自分から行っているのではありません」と宣言されました。ここでは、罪のない「私」ですら、自分自身の言葉を語ったり、自分自身の働きを行うことを拒んでいます。彼は慎重にあらゆることで御父にすがり、より頼みました。彼のように罪がなくてもこれが必要であること、そうしないなら自分の務めが外からのありとあらゆる危険にさらされるようになることを、彼が理解しておられたことは明らかです。このように神は徹底的だったのです。この神の徹底的姿勢は私たちを促すものであり、神の理想の僕にできるだけ近づくことを願う者たちはみなこの特徴を帯びていなければなりません――このような徹底的姿勢を身につけるには、ある時点で人が無に帰されることが必要です。このように無に帰される経験は、主の多くの僕の人生や務めのうちに明らかに見ることができます――その時、彼らは完全な絶望に陥る寸前の所まで行き、「神だけが唯一の財産」となったのです。

 しかし、クリスチャン生活やその働きの比較的後期、おそらく何年にもわたる活動の後でないと、このような地点には到達できないのでしょうか?「肉による」、人から出た努力や活動のために、ほとんど実りのないまま、失敗や挫折を経験する必要があるのでしょうか?ハンマーを打ち鳴らして熱心に築き上げてきた一大構造物が崩れ始め、あとには真に霊的な永遠のものがほんの僅かしか残らない、という目に最後になって会わなければならないのでしょうか?聖霊のなさることだけが神の目的に達することができ、永遠に残ります。私たちはこの問題にきっぱりと決着をつけることができます。

 確かに、神は最初の時点で人を無に帰すことができます!確かに、これは聖書に記されている人々の経験と合致します!少なくとも、彼らが自分に頼ってこの地点を踏み越えようする時、彼らは絶えずこの明確な経験の地点に連れ戻されたのです。

 これは主の働きのための訓練の真の性質である、と私たちは熱烈に信じています。この主の訓練により、御言葉と経験を通して主を知る知識が増し加わって行きます。神の御言葉を知る知識は経験的な知識でない限り、奉仕に役立つことはありません。この知識は神ご自身を知る知識であり、これが御言葉を生きたものにするのです。


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