前に引用した事例では、大いに異なるタイプの人々が登場しますが、彼らはみな共通の立場の上に導かれました。モーセには途方もない先天的能力や後天的能力がありました。モーセの感情や意志には指導力、意欲、情熱、勇気が備わっていましたし、知性の方面ではそれが「エジプト人のあらゆる知恵」と結びついていました。また、肉体的にもかなり力があったことは明らかです。イザヤやエレミヤは豊かな社会的、宗教的、聖職者的特権を持っていなかったわけではありませんし、良い訓練を受けていなかったわけでもありません。この面に関して、パウロについて何か述べる必要があるでしょうか?他方、ギデオン、アモス、ほとんどの使徒たちは、身分の低い慎ましい家の出身であり、教育も少ししか受けておらず、世間的特権もほとんどありませんでした。この後者の人々に関して、「彼らは無知で無学な者たちだった」と記されています。この人々はみな、前に述べたように、共通の立場に導かれました。痛ましい、時にはかなり長い訓練と試みを通して、前者の人々はこの地点に導かれなければなりませんでした。その地点で彼らは、ただ神だけがご自分の御業を行うことができることを理解しました。また、神は人が完全にご自分により頼む立場に立たない限り、いかなる人も、いかなる天然的能力も決して用いる事はないことを、彼らは理解しました。そのような賜物、訓練、能力は神にとっては重要なものではなく、人が十字架の原則や法則の深い内なる働きを通して天然的立場から霊的立場に移されない限り、役に立つことはありません。霊的能力以外の何ものも、霊の軍勢に対することはできません。これが神のあらゆる働きの背景です。

 神は先天的能力や後天的能力を人に授けて、その賜物を用いることがあるかもしれません。しかし、その人々が天然的な面に関して死に導かれ、霊的な面に関していのちに導かれない限り、決して神はその賜物を用いることはありません。モーセはこの道を行きました。パウロはこの道を行きました。霊的な永遠の目的のために神に真に用いられた人はみなそうです。つまり、働きだけでなく働き人をも受け入れてもらうには、この道を行く必要があったのです。

 全方位的訓練や備えに反対している、と思う人は誰もいないでしょう。そうしたものには何の意味もない、などと言うつもりは毛頭ありません。私たちが強調しているのはこういうことです。すなわち、たとえ先天的あるいは後天的に、賜物、教育、天然的能力、情熱、福音的信仰や教理、クリスチャンの働きに関する知識などがあったとしても、それでもまだ必要欠くべからざるものに欠けているかもしれないのです。それがなければ、他のあらゆるものも失敗に終わることになります。その最も重要な要素とは「聖霊に満たされること」です。

 他方、御霊に満たされた人は決して無知を擁護することはありませんし、主の働きの基礎となる知識の修得を軽んじたり無視したりすることもありません。御霊の促しや覚醒により、最も無学な人ですら有能な者になり、以前なら修得する気も力もなかったようなことを修得ました。これは御霊の働きの冒険譚の一つです。

 さて、こうした単純な基礎的事柄は私たちをさらに先に導きます。


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