このいのちの証しは死に打ち勝つ

 さて、私たちは一部分にあずかる時、全体にあずかることになります。なぜなら、その中間はないからです。あなたはその中にいるか、その外にいるかのどちらかであり、それ以外はありえません。信仰により聖霊の中で、本当にイエスの証しと親密な関係を持つようになる時、あなたはただちに血というこの大問題、究極的問題に巻き込まれることになります。これは生か死か、死か生かの問題です。あなたはこの問題の中にあるのであり、この領域にはただ一つのものしかありません。そのただ一つのものとは、神の御子の戦う信仰です。

神の御子の戦う信仰

 この領域では受け身的であることはできませんし、中立であることもできません。この領域では気晴らしに興じることはできません。祈りは戦う祈りでなければなりません。ああ、戦う祈りの復興が必要です!祈りを唱えるのをやめて、祈りを祈り、祈りの中であらゆる場所を巡ることが必要です。そして、主の御名によってこの大きな問題や戦いに直面し、それを乗り越えることが必要です。主の民は実際の戦いの祈りをさらに祈る必要があります。「神の御子の戦う信仰を与えて下さい」と主に求めて下さい!これは、この戦う信仰によって足場をしっかりと固める必要があること、諸々の環境や見かけによってそらされることを拒絶する必要があることを意味します。この証しはあなたにとってどのようなものでしょう?自分から取り去られて後に何もなくなってしまったら、自分も死ぬというものでしょうか?それとも、これは自分がたまたま身につけたものであって、服のように取り替えがきくものなのでしょうか?主イエスのこの証しを取り去られることは、あなたにとってすべてを剥ぎ取られることに等しいでしょうか?もしそうなら、あなたはこう言うことができます、「私にとって生きるか死ぬかの問題があります。それは私がその中に立っている証しの問題であり、主イエスの証しの問題です」。

 「兄弟たちは、小羊の血と、彼らの証しの言葉によって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもその命を愛さなかった」。この御言葉は矛盾しているように聞こえないでしょうか?「死に至るまでも」。アベルは殺されました。「兄弟たち」は死んでいるわけではなく、アベルも死んではいません。パウロはイエスのように殺されました。しかし、彼らは「限りないいのちの力」によって生きています。なぜなら、イエスは死と「死を握っている者」を征服されたからです。その十字架とその血により、彼は征服したのです!


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