新約聖書の中には、働き人や宣教士を求める訴えの例はまったくありません。こうしたことはせいぜい、貧弱な代替物や必要にすぎません。聖霊が真に満ちていて、そのいのちが現されている時、聖霊は「私のために……を選び分けて、私が召した働きに当たらせなさい」と言って、すべての働きや働き人の間で主導権を握られます。

 新約聖書では聖霊を受けることに大きな重点が置かれています。聖霊は宇宙的主権者である主――「万物の相続者」――の霊です。聖霊の使命は世界大であり、宇宙的です。世界的な幻、世界的な情熱、世界的な召命は、聖霊の主権が内側に確立されることから必然的に直ちに生じる結果です。これ以外にはありえません。それでは、これがこんなにも多くの人にとって自然なものではないのはどういうことでしょう?なぜ、主の民は心をこめてひたすら語って、この証しを広めないのでしょう?これもまた、使徒の働き十九章二~五節の問題と同じなのでしょうか?

 代価が妨げとなって、御霊を消しているのでしょうか?代価が必要です。新約の証し人たちが「証し」を携えて赴いた所では、必ず敵――龍――が戦いを仕掛けました。戦いを仕掛けるのは敵の方でした。なぜなら、敵は一大敗北者となることが定められていたからです。それは主権を巡る戦いでした。それは敵の不承不承のあいさつであり、意図せざる祝辞でした。地獄を怒らせ、恐れさせる何かを、証し人たちは代表し、所有していたのです。

 この時代における主の御旨と方法は、すべての地で二人または三人の人を復活の中でご自身と一つにし、「救われつつある人たちを彼らに加える」ことです。

 大事なのはいのちの増加であって、勧誘や「呼び物」や宣伝ではありません。真の証しがなされる時、ここでもまた聖霊が主導権を握られます。

 現在の最大の必要は、聖霊により、キリストの復活の力をもって、主の民を再び力づけることです。どうかこれが速やかに実現されますように。そして、いのちのために、真の生けるイエスの証しのために、必要ならあらゆるもの――伝統、組織、一般受け、形式や型、偏見、個人的関心、評判、威信、妥協、他人の意見、策略など――が犠牲にされますように。そうすれば、主の解放が再び実現されて、その火が新たに撒き散らされるでしょう。


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