3.「イエスの証し」は新たな「運動」ではなかった

 何の計画も立てられませんでした。何の方針もありませんでした。組織はまったくなく、後で承認される必要があったものは、当惑せずにはいられないその活力のゆえに認めざるをえませんでした。ですから、とても単純だったのです。

 手の込んだ宣伝はありませんでした。新しい協会、教派、「教会」、団体の設立、立ち上げ、形成、生成、創設は、念頭にありませんでした。彼らはそのようなことを始めませんでした。しかし、彼らの証しは信じたすべての人たちに際立った特徴を与えたのです。そして、外部の人たちは彼らにレッテルを貼り、その動機や目的を誤解しました。その際立った特徴とはいのちでした。

 では、「イエスの証し」とは何だったのでしょう?

 それはもっぱら、ある事実の宣言、確認でした。その事実とは

死者の中からの復活によって確立され、証明された、神の御子であるイエス・キリストの普遍的な統治権と主権

です。

 この証しには二つの面があります。一つは客観的な歴史的事実です。これに関しては多くの確かな証拠がありましたが、その正しさが「キリストのからだである教会」の中で――そのすべての肢体や、そのあらゆる活動において――聖霊によるこの復活の力によって実証されました。このいのちはキリストにおいて罪、死、地獄、サタンを征服し、キリストを「最も低い所」から「あらゆる天を遙かに超えた」所にもたらしましたが、このいのちが天から送られた聖霊によって人々の内に植え付けられたのです。

 ですから「イエスの証し」とは、イエスは宇宙的に勝利して生きておられるということであり、また教会はこの真理の「柱」(または記念碑)であるということです。教会は、このいのちの容器であるキリストの復活のからだであり、キリストの復活の力で満たされ、聖霊によって治められています。

 イエスの証しとはつまりいのちです――彼のいのちです。生活様式ではなく、活気に満ちた無限の力です。破壊することができず、抵抗することもできない、不朽のものです。それは活気に満ちた力であり、主イエスを信じることを進んで願う人のいる所ではどこでも、霊的に死んでいる人たちに伝達されるものです。

 このいのちは古い鋳型、伝統という「皮袋」、疲弊した組織、人が造り出した秩序や形式を破裂させます。

 このいのちは、かつて神により起こされて大いに用いられたけれども生けるものではなくなってしまい、今では過去の遺物にすぎないものをも取り除きます。ここではユダヤ教ですら意味がなくなります。イエスの証しは捕らわれ人を解放します。そして、その力によって発せられる言葉は、「私の民を去らせよ」という抗しえない要求です。「復活であり、いのち」である御方がその教会を通して命じられる時、ラザロは出てこなければなりません。このいのちは、「このからだ」の中におられる復活した主から、永遠の御霊によって流れ出ます。このいのちこそ、世界宣教とイエスの証しを推進する力です。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ