完全さの中で完全に向かう

 友よ、思い出そうではないか。あなたは完全さの中で完全に向かって成長しているのである!今日のあなたに対する神の最善であるものは、必ずしも明日のあなたのための神の最善とは限らない。われわれの御父には、さらに追い求めるべきものが常にある。われわれは自分のさらなる必要を悟る、というのはそうではないだろうか?神にあってわれわれはさらに豊かに、強く、深くなるべきである、というのはそうではないだろうか?御言葉の乳は赤ん坊の時には完全だが、御言葉の肉は成長・成熟しつつあるクリスチャンを待っているのである。

 忘れないようにしようではないか。われわれが「肉」で養われるのは、われわれが成熟に達したからではなく、われわれが成長して成熟に至る助けとなるためである。神の「肉」がわれわれに与えられるのは、われわれがすでに到達しているからではなく、到達する力を与えるためである。御霊に満たされている平均的な教会が犯している大きな誤ちは、それが過去の経験と達成の中に生きていて、それをあまりにも誇っていることである。われわれも個人的に同じ過ちを大いに犯している。諸々の事柄、過去の経験や達成、教理や教義が、たとえ良いものであって神からのものだったとしても、神の御旨におけるそれらの地位や役割は、キリストにある成熟と比べるとおもちゃのようなものである。

 私を誤解しないでほしい!聖徒たちの野外集会で勝利の叫びを聞くことや、主の栄光を見ることが、私は好きである。しかし、私はまた知っている。悪しき日に際して立つ助けをするには、叫び以上のものが必要である。われわれの救いの神を堅く信じつつ、燃える炉の中に歩いて入るのに十分な恵みを受けるには、感情的興奮以上のものが必要である!

 主が「私に従いなさい」と仰せられるのを初めて聞いたとき、それはペテロにとって素晴らしいことだった。それは青いガリラヤ湖の近くで、三年半前のことだった。「そこで彼は自分の網を置いて従った」。恵みによる何という冒険!夢にも思わぬ、何というイエスとの歩みと会話。その真意はなおも「従う」ことだった。ガリラヤから麗しの山まで、カペナウムまで従うことであり、なおも「従う」ことだった。イエスが逆巻く絶え間ない波の上を歩かれた海へ、エルサレムへ、ベタニヤへ、さらに先にまで至った。変貌の山に至った……それは完全な日であって、その中で彼らは主の完全な栄光を見た。しかし、依然として先に進み続けたのである。残りの生涯そこにとどまって三つの幕屋を建てるべきことを彼らは確信していたにもかかわらず、イエスは彼らをあの完全な朝から、御自分が「カルバリ」と称されている別の山を登るさらに完全な日へと導かれたのである!

 ペテロに対する「私に従いなさい」がもう一回あった。それはイエスが別れを告げている時のことだった。その時、彼は漁師の弟子たちに、ペテロが遠いローマで遂げる死について話された。彼はペテロに、「他の人があなたに帯を結び付け、肉が恐れおののく所に連れて行きます」と話された。しかし、真意は依然として「従う」こと、「従い続ける」ことだったのである!


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