不完全な完全

 まず第一に、神の完全さを除いて、あらゆる完全さは相対的なものであることを覚えていなければならない。神の完全さだけが完璧な唯一の完全さである。神の完全さに対して、われわれは何も足すことはできない。ノアは「完全な人」として述べられている。聖書は彼のことをそう呼んでいる。しかし、一、二章読み進むと、彼が「酔っぱらって」恥ずかしい振る舞いをしたのを見出す。アブラハムは「完全」だったと言われているが、それでも彼は何という嘘をついたことか。ヨブは「完全な人」と称されているが、それでも彼はとても辛辣なことを言った。われわれの御言葉のこの箇所では、パウロはわれわれに完全になるよう勧めておきながら、自分自身のことを「私はすでに完全になったわけでも、すでに達したわけでもありません……」と述べているのをわれわれは見い出す。

 これは一体何を意味するのか?この人々が完全だというなら、どうしてこの完全さの中から塵のように無価値なものが生じるのか?どうしてこんなにも「不完全」なのか?答えは一つしかない。その答えとは、完全であっても「不完全」でありえる、ということである。ノアは彼の世代の中では完全だった。聖書がそう述べている!その時代、その場所に関して、彼は完全な人だったと称されている。イエスがガリラヤ湖畔を歩かれた時代に人々が知っていた真理を彼は知らなかった。

 母親の腕の中にいるあの小さな赤ん坊は、幼児期についての完全なちょっとした例である。その小さな子に傷はない。光輝く健やかさで語りかけて笑う。医者は「この子は完全な子供です」と言う。しかし――まだまだ成長できるのである!成長し続けて完全な人に達しなければならない――父親の身の丈にまで至らなければならない。その完全さは相対的である。現在の幼児期における完全さである。しかし、この完全さは、完全さが増し加わる可能性を排除するものではない。完全さを拡大・増加させて成人に至ることができる。しかし、今日の完全さは明日の完全さではない!幼児期に絶対的完全に至ることができたとしたら、その子はいつまでも赤ん坊のままだろう。だから、「相対的完全さ」というようなものがあるのである――神の事柄においては「不完全な完全さ」というものがあるのである。


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