飢えた心

 主が話されたのは外側のことではなく、内側のことだった。自分の欠点を見る時、絶望して座り込んではならない。またこれは、「自分は『清い心』に到達した」と言えるようになる霊的生活を育もうとして、年月を費やす問題でもない。昨日がいかなるものだったとしても、全き誠実さで主に手を差し伸べよ。釘で貫かれた御手に手を差し伸べよ。ただ心を尽くして主の方に向け!今日、誠実な願いの汚されていない純粋な流れと共に来たれ。そして、鹿が谷川を慕い求めるように、あなたの飢えた魂をして生ける神を求めて叫ばせよ。そうすれば、間もなく、あなたは主の内に平安を見出す!

 イチジクの木の下に座って、おそらく自分の大きな必要を覚えつつ、疑いや恐れに満たされているナタナエルは一人だけではない。当時実際の経験だったものを霊解することは可能である。これは何度も何度も経験されてきたことである、とわれわれは矛盾せずに宣言できる。そのすぐ前日にピリポは、人々が「あの人はヨセフの息子で、ナザレの大工である」と言っていた人を見た。彼を見たのはピリポの目だけではなかった。しかし、おそらく、その人々はピリポの心の中にあったものを持っていなかったのである。

 ピリポがイエスを見た瞬間、彼はイエスを知った。優秀なクリスチャンになるために、彼は神学試験に合格する必要はなかった。彼がイエスの目を見た瞬間、彼の心は突然賛美の歌を歌い始め、形容できない幸福を感じた。彼が自分の友人であるナタナエルを探したのも、極めて当然のことではないだろうか?それはクリスチャン生活を送るよう彼を説得するためではなく、自分たちがキリストを見出したことを彼に告げるためだった!人がキリストを見出す時、おのずとクリスチャン生活が始まるのである。

 だから、ナタナエルはイエスのもとに行き、道すがらピリポと議論した。何が起きたのか、あなたは知っている。イエス御自身が、ナタナエルの即時的回心の奥義への扉を開く鍵を、われわれに与えて下さっている。「見よ、まことのイスラエル人を」と主は言われた。「この人の内には何の悪巧みもない」。やって来たのは正直者だった。歩いてきたのは誠実な人だった。そして道の曲がり角で、ナタナエルは顔と顔を合わせてこの御方と会い、この御方が自分の主であることを悟ったのである!


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