われわれには新しい宗教改革が必要である!マルチン・ルターが古の聖ペテロの階段を登った時、素晴らしい啓示が彼に臨んだ。この啓示は世界中に鳴り響き、今日、われわれのプロテスタント諸教会は広くこれを受け入れている。基本的には、それは人の義の不十分さについての福音だった。この物語の素晴らしい点は、「義人は信仰によって生きる!」ということだった。われわれの救いが行動の領域からカルバリの十字架に属する所に移されたのである!

 宗教改革の時代、キリスト教世界は、一般的に言って、人の義の不十分さを受け入れ始めた。しかし、私が思うに、それはあまり遠くには及ばなかった。人の知恵の不十分さについて話し始めると、それは別問題だったのである。人々はこれを認めることを拒んだ。そして、「思いを集中して知性を用いることによって、教会の諸々の教理や教義を策定することができる」と主張した。教会がこれほど無能なのも不思議ではない!われわれがこのように明らかに力に欠けているのも不思議ではない。なぜならわれわれは、自分たちの全ての道で、喜んで彼を認めようとしてこなかったからである。われわれは、自分自身の理解力にひたすらすがるのを常としてきたのである!

 それを通して教会がフィラデルフィア時代に入った扉は、「イエス・キリストの義を認める」という扉だった。人々は、自分たちの救いの望みと神を信じる自分たちの信仰とを、ことごとく、カルバリの十字架上におけるイエスの贖いの御業の上に置いた。しかし、この同じ教会が、自分自身の知恵を明け渡して、上から来る知恵を求めて主を仰ぎ見るよう召される地点に来ると、教会は喜んでそうしようとはせず、フィラデルフィア時代からラオデキヤの暗闇へと通じる門をくぐってしまったのである。教会の大部分は、教理としての聖霊は受け入れたが、聖霊御自身を拒否した。そして、聖霊の務めを経験ではなく信条の中に押し込めることに固執した。

 私について言うと、神と交わるこの特権を失うなどということは、私の魂にとって受け入れがたい考えである!これは形式的祈りよりも遥かに優ったものである。儀式的な家庭の祭壇を打ち立てることよりも優ったものである。一日の特定の時間を「主を待ち望むこと」に捧げる以上のことである。これは神の御座から流れる川である。交わりの歩みである。霊的冒険の大路を旅して、他の方法では決して達しえない栄光と恵みの領域に入ることである。神との交わりのこの歩みは、人生の諸々の疑問に答え、その諸問題を解決して悩んでいる全ての心に完全な満足を与える。これが道であって、他に道はない!

 他に道はありえない。これは神の道だからである!困難、心配や悲しみにもかかわらず、また、問題がどれほど複雑で疑問がどれほど難解だったとしても、御霊はこの道を啓示して下さる。そして、主が御自身をあなたに啓示される時、神の知恵が与えられる。


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