キリストが生きておられる

 聖書を読むとこう書かれている。「私はキリストと共に十字架に付けられています。それにもかかわらず、私は生きています。しかし、私ではなくキリストが私の内に生きておられるのです。そして、いま私が肉体にあって生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます。御子は私を愛して、御自身を私のためにお与えになりました」(ガラテヤ二・二十)。今われわれが生きているのはキリストの命である。これが明確に示しているのは、キリストにあるわれわれの地位上の立場である。われわれはキリストにあって完全である。キリストにあって完全になるべく、われわれは世の基が据えられる前から召されていた。主がかつてわれわれに語られたように、召される者は多いが、「資格を得る者は少ない!」。選ばれるためのそのような資格は、地的命の選択よりも、神の選択を選ぶようイエスに与えられたあの選択による。力ある命と御父の指示を選ぶことによるのであって、この世の諸々の王国を支配することや石をパンに変える能力によって「大衆受けする救い主」になるという申し出を受けることによるのではない。この申し出はとても重大なものだったが、われわれの主の目は堅く定まっており、その足は「エルサレム」とゴルゴタに「向けられて」いた!彼は世の基が据えられる前から十字架に付けられていたが、彼は御父の御旨に従って前進し、カルバリの十字架上の自分の場所に至った。その地上の巡礼を達成して、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」という御父の御声を聞いた時、彼の心はどれほど喜んだに違いないことか。

 神の至上の御旨は、哀れな死すべき存在であるわれわれがわれわれのキリストと同じ罪無き姿になることではない。むしろ、われわれの完全さはキリストの中にある!キリストの選択がわれわれの内に造り込まれることなくして、われわれは地的選択に対して真に死ぬことはできない!生ける神の御霊がわれわれを静めて下さった後、そして、地上の物音が消え去った後、われわれの多くはありがたいことに、あの輝かしい合一を感じてきたし、われわれの心の内なる礼拝所の中であの甘い交わりを耳にしてきた!われわれは部分的にだが、すべての主権や権力を遥かに超えた天上でキリストと共に座らされるという驚異を経験してきた。われわれは言わば、戦いが終わる前に、この喜びと勝利を経験してきたのである。


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