上を見上げる

 われわれもまた不思議に思ってきたのだが、今この時に流れている諸々のメッセージは、われわれが歩むうえでなぜこんなにも著しくまっすぐなのか?しかし、ここでもまたわれわれは思い出さなければならない。後ろを振り返ることは死だが、上を見上げることは命である!神はわれわれを単一の目に召してこられた。「すべての良い賜物とすべての完全な贈り物は上からであり、光の父から下って来ます。父には変化や回転の影はありません」(ヤコブ一・十七)。キリストには、善悪の木から食べることによる曇った視覚はない。むしろ、彼の目は純粋で悪を御覧にならない!キリストとの合一は単一な目と、命の木に与ることによる明るい視覚とをもたらす!われわれの主イエス・キリストは、世の基が据えられる前から屠られていた神の小羊だった。最初の降臨の前から彼は地位的に屠られていたが、実際に、肉身をとった御言葉となってわれわれの間に宿られた。彼はまさに事実上また経験上、その究極的力に関して三重の誘惑を耐えなければならなかった。御父が彼の地上の旅路のために与えられた生涯を、この誘惑が支配した。彼は実際にカルバリの木の上で屠られて、世の罪を担われた!なぜ神は今この時、このように細く狭い歩みに召しておられるのか?完全な全き明け渡し以外の何が、変化や回転の影のない御方である御父の御心の願いを満足させられるのか?彼の選択である命の木ではなく、善悪の知識の木を選ぶことができるだろうか。われわれは愛子にあって選ばれている!贖いの日のために証印を押されている!われわれの巡礼の旅で岩なるキリスト・イエスにある安全を享受するよう召されており、キリストの中には何の罪も宿っていないことを知るよう召されている。キリストにあって、われわれは御父に近づくことができる!キリストにあって、われわれは御父と一つにされている!アダムが神のかたちにしたがって造られたのを見て、われわれは満足してきたかもしれない。自分たちもまた神のかたちと似姿にされれば十分である、とわれわれは思ってきたかもしれない。われわれは自分たちのことを「神の完全な子」と称してきたかもしれない。しかし、ああ、そのようなかたちの中にすら、キリストから離れた意志や選択の力が存在するのである。モーセのように神の選択を選んで、キリストの完全さの中にある時だけ、われわれは安全である。モーセは「罪のはかない歓楽を享受するよりは、むしろ神の民と共に苦しみを被ることを選び、キリストのゆえに受ける謗りをエジプトの宝にまさる富と考えました。なぜなら、彼はその報いの報酬に関心を寄せていたからです。信仰によって、彼は王の怒りを恐れずにエジプトを立ち去りました。なぜなら彼は、見えない方を見ているようにして、忍び通したからです」(ヘブル十一・二十五~二十七)。


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