神御自身

 これは、人がイエスの教えや哲学を拒絶したという問題ではない。人が神御自身を拒絶したという問題である!根本的に言って、これは彼の教えを受け入れる問題ではない。われわれが彼を受け入れるか否かの問題である。彼の照らす臨在から離れるなら、その教えを理解するのは不可能である。もし彼の臨在がないなら、われわれがどれほどクリスチャン生活を送ろうと努力・奮闘したとしても、そうすることはできない。この悲劇的な時代、人は神を退位させてしまった!人は自分の道を望んでいる。自分の組織を働かせることを望んでいる。自慢の文明にもかかわらず、自分が低い水準の理解に落ち込みつつあることを、人は分かっていない。人の光はかつてないほど大きな暗闇に転じつつある!「なぜなら、見よ、暗闇は地を覆い、酷い暗闇が人々を覆うからだ」。

 しかし、これは凪の前の嵐である。昼の前の夜である。喜びの叫びの前の悲しみである。幸福な時代の前の苦悩の時である。神の子らの現われの日の前の、主の子らが無力に思われる時である。その日、主の子らにおいて、また、彼らを通して現わされる、われわれの天の父の御力に、全地が震撼する。彼らは壁を飛び越え、軍勢を駆け抜ける。一人は千人を追い、二人は万人を逃走させる!これは世界を福音化しようとして世界を駆け巡ることではない!神が語られるのである!そしてこの神の言葉には権威と抗しえない力があるので、地の表にある何ものも、神の臨在の働きに逆らえない。

 今日、われわれを虜にしているものがあることに疑いはない!われわれは型にはめられてこなかっただろうか?律法主義によって縛られ、禁令や禁制に囲まれていないだろうか?それでも、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にします!」と強調して宣言されている。さて、真理は証明済みの受け入れられている事実についての定義ではない。真理は用語以上のものである。真理は、証明済みのものや上手く否定できないものを示す言葉以上のものである。真理は神学ではない。真理は教理ではない。教理は正しいかもしれないが、元々それは真理ではない。われわれを自由にする真理とは、キリスト御自身に他ならない!われわれがキリスト、永遠の真理、確かな真理を知る時、内側から自由が臨む。この自由は、われわれが外側から知ることになる自由の前触れである。内的な自由が外的な自由に先立つ!外側の王国の栄光、威光、力を知る前に、内側の王国を経験しなければならない。地上の山々や谷々に及ぶことになるわれわれの主の統治を、今、人々は心や生活の中で経験し始めている。この人々は自分たちの全てを明け渡して、主の幸いな聖なる御旨に服した人々である。いかなる教理も人を自由にできない!聖書の文言に関するいかなる観念や理解も、虜になっている魂を自由にできない。御手に釘跡のある人が、人の人生の敷居を跨いで歩いて来られる時、足枷は砕かれる。そして、自由、輝かしい自由が、心とかつて虜にされていた霊の中に、解放の音を響き渡らせるのである!


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