われわれはキリストの血によって義とされる

 ローマ五・九「私たちは、キリストの血によって義とされているのですから、なおさら、彼によって御怒りから救われます」。義とされない限り、人々は義とされえない。自分自身の行い、徳行、正しい行いによって、神の目から見て義なる者になることは誰にもできない。宣教者たちは信仰による義認について話す――しかし、血の力を尊重することを見落とす。われわれが信仰による義認について話す時、われわれは何を言わんとしているのか?何を信じる信仰か?誰を信じる信仰か?可能と思われる唯一の答えは、キリストを信じる信仰である。しかし、聖書はそれよりもさらに深い結論にわれわれを導く。十字架に付けられたキリストを信じる信仰でなければならないのである。イエスがカルバリの十字架上で死なれて初めて、われわれは神の目から見て義とされたのである。これは、われわれの祝された主の務めに関する大事な教理である。大抵の会衆は、自分たちの耳に鳴り響く「われわれは信仰によって義とされる」という宣言と共に現代の教会から離れ去る。しかし、信仰を行使した結果を経験したことのある人は比較的少数である。もしキリストが生き続けて、あの犠牲の死を遂げていなければ、われわれは神の目から見て決して義とされることはできなかった。われわれが義とされたので、キリストは死から甦ったのである。もしわれわれが義とされていなければ、神が彼を世に遣わして行わせようとした働きをすることにキリストは失敗していただろう。しかしハレルヤ、その尊い血は神の目から見て受け入れられるものだった――罪のための贖いだった――そして、御子イエス・キリストが流された血のゆえに、人々は御父の御前で義とされたのである。


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