イエス・キリストの血の途方もない霊的価値を人々に見せるには聖霊の力が必要である、というのは本当である。救われていない人々はそれを理解できない。「救われていない」という言葉で私が言わんとしているのは、公然と罪を犯している世の人々のことだけでなく、自分自身の不信仰という大路や脇道の中で迷子になっている人々のことでもある。その人はことによると奉仕者かもしれない。もしイエス・キリストの血を信じていないなら、その人は救われた人ではない。イエス・キリストの血がなぜとても素晴らしくて尊いのか、私は幾つかの理由をあなたに与えよう。

キリストの血は贖う

 レビ記十七・十一「肉の命は血にあるからである。あなたたちの魂のために祭壇の上で、贖いをするために、私はこれをあなたたちに与えた。なぜなら、魂のために贖いをなすのは血だからである」。上なる天においても――下なる水の中でも――われわれが住むこの世界においても――血による以外、罪のための贖いは無い。われわれの祖先がエデンの園で「自分自身を覆う皮衣を造れ」と言われた時から今日に至るまで、血を流すことなく罪の贖いがなされた例は一つもない。カインのいけにえは拒否されたが、アベルのいけにえは主に受け入れられた。旧約聖書の中に見出される祭司職のどの型においても、血を流すこと以外に、人々に与えられた贖いの体系や方法は決して無かった。型と本体は対応していなければならない。体の命は血の中にある――そしてイエスはその尊い血をカルバリで流された――これにより、われわれの全ての罪を贖うためにその命をお与えになったのである。

キリストの血を通してわれわれは平和を持つ

 コロサイ一・二十「その十字架の血を通して平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によって御自分と和解させて下さったのです」。罪の世は神と戦争状態にある。われわれは神と敵対してきた、と聖書はわれわれにはっきりと告げる。われわれは異邦人、よそ者――主とその真理の敵だった。しかし、イエスがその素晴らしい和解の働きを成就・完了された時、われわれはアブラハムのように神の友となった。人々の魂と神の憤りとの間に停戦がなされた。行軍する天の軍勢は、ようやくわれわれは神との平和を得た、という輝かしい真理を宣言した。それはあまりにも麗しい平和なので、人のあらゆる理解を超えている。われわれは神と和解させられた。キリストがわれわれの宥めとなり、カルバリの小羊の血を通して、戦闘服はわれわれから取り去られ、われわれの素晴らしい救い主は御自身の義と平和の衣をわれわれにまとわせて下さった。これをなしうるイエスの血以外の方法を私に告げられる神学者は、この世に一人もいない。覚えよ、われわれが神と和解させられて平和を得るのは、ただその血を通してのみなのである。


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