求めるだけでなく受ける

 数年前、私の奉仕仲間である、とても深い洞察力のある神学者が、私が導いていた集会に参加した。初っ端から人々は主の御顔を求め始めた。毎晩、人々は祭壇で執り成しと祈りをしていた。懇願し、いつまでも求めていた。

 ある晩のこと、この有名な説教者は私の方に身を寄せて言った。「この人々は絶えず探しているのに、見つからないのでしょうか。絶えず求めているのに、受けないのでしょうか?」。彼は批判して言ったわけではないが、この状況に困惑していた。この状況に注意して祈る必要があることを、私も自覚していた。

 「まことに私はあなたたちに言います。悔い改めて幼子のようにならない限り、あなたたちは天の王国の中に入れません」(マタイ十八・三)。

 理解を超えた平安を享受するには、求める方法を学ばなければならないだけでなく、受ける技術も教わらなければならない。神に対する信仰と確信に基づいて、自分の求めを一度知ってもらったら、あとはそれを主にお任せする境地にわれわれは達しなければならない。諸々の約束がすでに与えられている。それらを疑問視してはならない。

 私の子供たちが若かった時、暑い日にはたびたび、私のところに来て、冷たい飲み物やアイスクリームを買うための硬貨を求めたものだった。私は心から彼らを愛していたし、彼らが私に対して抱いている愛を幸いに思っていた。

 こうした求めを楽しみにしていた日々を私は思い出す。「夕食の後、仕事が終わったら、お金をあげよう。そうしたら、店に駆けて行って、好きな物が買えるよ」と私は子供たちに約束したものだった。私の記憶が正しい限り、子供たちがする必要があるのは、私が約束したことを一度だけ私に求めることだった。

 絶えざる乞い求めと嘆願は、私にとって、私の言葉に対する信頼の欠如を意味しただろう。子供たちは私に信頼していた。私を信じていた。彼らが私にしたささやかな「祈り」――このような表現を使うことを許してもらえるなら――は、感謝と共に終わった。彼らの執り成しは私の約束に基づいていた。約束に基づいていたので、信仰は自らを強く主張して、執り成しは賛美に変わったのである。

 われわれ年配の者たちは、この教訓を学ばなければならない。私が今述べているのは、神の聖徒たちの上に臨む執り成しの霊、したがって聖霊御自身のことではない。私が述べているのは人生の日々の経験のことである。日々の経験の中で、われわれは自分が望んでいるものをすべて受けていないからという理由で、思い悩み、心配し、感情的に神経質になっている。おそらくそれは、われわれが「受け取り」方を学んでこなかったためである。神を信じる方法を学ばない限り、われわれは受け取り方を学ぶことはできない。


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