第二に、何事も思い煩ってはならないとわれわれは命じられている。言い換えると、心配するな!ということである。「百合について考えよ」とわれわれに言われた時、イエスはあの麗しい教訓をわれわれに与えて下さったのではなかったか?彼は翼で飛んでいる雀を指して、これらの雀の一羽たりとも、われわれの父の許しなく、地に落ちることはない、と言われた。彼は弟子たちに、「明日のことを思い煩ってはなりません。その日に必要なものをみな、神は憐みによって顧みて下さいます」と言われた。

 われわれは一人で成長して自分自身の道を行くよう放って置かれなかった。むしろ神は、われわれの上に、夜は火の柱、昼は雲の柱を置いて、確実にわれわれの足が常に故郷への道を辿るようにして下さった。これが神が祝福して私自身の心に与えて下さった考えである。雲の柱が私を導いている限り、明日のことを心配するどんな権利が私にあるというのか?火の柱が私の案内である以上、機嫌を悪くして及び腰になるどんな権利が私にあるというのか?主御自身がある状況の中に私を導いておられる以上、どうしてその状況について悩まなければならないのか私には理解できない。

 これを書いている今、私はシカゴの街にいる。シカゴは下町の商業街を除いて私のよく知らない都市である。昨日、私の友人の一人が私を車で郊外に連れて行ってくれた。その道を以前見たことは一度もなかった。われわれは大渋滞の中を進んだ。ガタガタ道もあれば、きれいで滑らかな道もあった。

 もし私が質問攻めし続けていたら、私の友人は何と思っただろう?私がこう言ったとしてみよ。「これが正しい道であることは確かですか?あの道は良いように見えません。この道はあまりにもでこぼこです。何か他の道があるに違いありません。私が思うに、今、私たちは間違った方向に向かっています。あの角を曲がるべきだったのではないでしょうか?」云々。

 友人は私を見て、心の中でこう言ったにちがいない。「プライス兄弟はきっと、私の運転に信頼していないにちがいない。私はこの道を知っており、何回も通ったことがある。一体全体、彼は何を心配しているのだろう?どうして私を信頼してくれないのか?」。

 多くの人がイエスに対してこのように振る舞う。彼は彼らを導いており、彼らを守ると約束された。故郷に向かう足を彼はすべて御存じである。しかし数分ごとに、われわれは彼の所に駆け込んで、道のことで不平を鳴らすのである。「彼は間違いを犯したにちがいない」とわれわれは自分の心の中で確信しているのである。彼が左に曲がり、われわれを導いて緑の牧場から遠ざからせる時、「彼は右に曲がるべきだった」とわれわれは確信する。それで、われわれは不平を鳴らして呻くのである。間違いを見つけて不平を鳴らすのである。われわれの心と思いは麗しい平安で満たされてしかるべきなのに、騒動の状態にあることに何の不思議があろう?


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