終点はない

 しかし、われわれはそこで止まってしまったのではないだろうか!!なぜわれわれは聖霊の導きに従ってこなかったのか。聖霊の務めは超自然的な事柄を明らかにすることであり、人の理解力では決して理解できないこと、人の目だけでは決して見ることのできないものを啓示することである。

 受肉を教理として受け入れることと、それを生活と心の中に活力として適用することとは、別の問題である。イエスの人性という永遠の事実を決して忘れないようにしようではないか。「彼に罪はなかった」と言うことは、彼が人類と一つである現実を損なわない。かえって、彼を完全な人として確立する。彼は、御父の御旨に完全に従い、御父の永遠の御旨に完全に服することにより、人間生活の中で何が可能になるのかを示す、生ける見本なのである。

 再び次のことを強調する必要がある。贖われたすべての子らは、人なるキリスト・イエスが地上で生活して務めを果たすのを可能にしたのと同じ神の資源を利用できる。彼が誘惑に打ち勝った力が、われわれ全員にも無代価で差し出されている。この力は何もイエスだけの特別な遺産ではない。一度ならず彼が保証されたように、彼が行われたことは彼自身の力によって行われたのではなく、彼の内に住んでおられる御父によってなされたのである。

 思い出そうではないか。この同じ力を、クリスチャンとして成長する小道をイエスと共に旅する人はみな、利用できるのである。キリストの満ち満ちた身の丈にまで進んだ人々の務めによって、神の臨在のこの顕現が、それに伴う栄光全体と共に、すべてを一掃する日が来る。この日は遠くないことは明らかではないだろうか?これは空しい夢ではない。福音書はこれで脈打っている。書簡はこれを宣言している。使徒十・三十八がこう述べているのを決して忘れるな。「神は聖霊と御力とをもってナザレのイエスを油塗られました。この御方は行き廻って善を行い、悪魔に虐げられているすべての人を癒されました。なぜなら、神が彼と共におられたからです」。

 思い出そうではないか。御父が御子に与えられたものを、御子は同じように人に差し出してこられたのである。しかし、その現実を完全に受け入れる代わりに、われわれはそれから教理を作ってきた。従順にそれを受け入れる代わりに、われわれはひどく恐れてきた。そのため、われわれの不信仰や批判から生じた疑い、恐れ、誤解のうちに、その可能性は失われてしまったのである。


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