生ける御言葉

 知的・文化的領域の中でしか生きていない人々は哀れで気の毒である。彼らは肉の目で山上の垂訓を読み、イエスに似た者となるために最善を尽くしている。道ばたにいたあの女のように、彼らは地面の穴から湧く類の水しか思い浮かべることができない。彼らは「アテネ人」である――とても宗教的である――しかし空っぽで真の霊性に欠けているのである。

 カペナウムの会堂の会衆が、永遠に飢えを満たすパンについて主が語られるのを聞いた時、彼らは物質のパンという考えから逃れられなかった。飢えは食欲を意味するものに他ならず、彼らは水で潤せる渇きしか知らなかった。彼らは荒野に降ったマナをただちに思い出した。そしてわれわれも、「肉」という言葉は聖書の中でこの肉体や肉の幕屋以上のものを指すのに使われていることを忘れて、同じ過ちを犯しているのである。

 われわれの体の素晴らしい諸器官の中に道徳的性質は何も無い。肉の家の中にあなたは住んでいるのではないし、肉の家のことを聖書は述べているのでもない。その家の中に住んでいるのは肉の人である。「肉」という言葉は人の性質の中にある神の律法に抵抗するものを描写するのに使われている。それは堕落した人類の中にあるあの堕落した性質であり、この性質は御霊に属する事柄に逆らって永遠に戦う。この性質はあまりにも罪深く堕落しているので、それを神の諸々の律法に従わせることは決してできないし、天の父の御旨を行うことも決してできない。

 肉を対処する際、パウロは婉曲的な言葉をまったく使わない。彼は言う、「それを十字架に付けよ。それを死に渡せ。それを殺せ!」と。彼はそれを「古い人」「罪の体」「死の体」と呼んでいる。それを繕おうとしてはならない。それを褒めそやしてはならない。それを涵養してさらに豊かな良いものにしようとしてはならない!詰まるところ、「肉」は人の中にある罪の原則である。それはあなたではなく、あなたを支配して駆り立てる力である。キリストがあなたの友であるように、それはあなたの敵である。もし「肉の中に」あるなら、われわれは神を喜ばせることができない!

 神の御手――釘跡が残る御手――が下に向かって差し伸べられていることを、われわれが知ってさえいれば。この御手は愛と恵みをしたたらせつつ、われわれをこの卑しい自己という拘束の中から引き上げて、贖い、再生、聖化、栄化という高次の領域にもたらそうとしているのである。


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