人は神を知ることができるのか?この問いは一世紀になされ、他のすべての世紀でもなされてきた。神を知ることができる、というのが本当なら、必然的に次の事実が続かなければならない。すなわち、全き誠実さで主を求め、遂に顔と顔を合わせて主とまみえた人の人生には、新しい日の出が臨むのである。そうすることが本当に可能なら、われわれは――内外の――全ての騒音や争いから身を引くべきだし、完全な平安をもたらし、完全な満足を与えてくれる、あの崇高な経験の中に入るべきである。

 主の御顔を求めることはわれわれにとって何と祝福された特権であることか!しかし、見いだすことがもし不可能なら、どうして求める必要があろう?われわれは良いものから悪い習慣を育むおそれがあるし、時として、一つの経験から別の経験へと導く近道となるよう神が意図されたものから儀式を形成してしまうおそれもある。

大きな隔たり

 魂が御霊に属する上の領域に達して、霊的な諸々の真理をそのあるべきところや背景から引きずり下ろし、そして、それらに儀式的な肉を装わせようとすることは、何と空しいことか。その二つの領域の間には大きな隔たりがあることを彼らは忘れている。肉的な事柄を霊の衣で飾り立てることが不可能なように、霊的な真理を肉の衣で飾り立てることも同じくらい馬鹿げている。これらのものは二つの異なる、区別された、別々の領域に属する。これらは異なるだけでなく、敵対関係にある。

 事実、これらは絶えざる戦いの状態にある。肉の欲するところは御霊に逆らい、御霊の欲するところは肉に逆らう。そして、この二者の間に魂は立っている。肉による礼拝は魂的なものになるおそれがある。その現れを見るのに、あまり長く旅する必要は無い。そのような礼拝はとても感情的なものになりうる。感情に働きかけて、その指でわれわれの感情の琴線をかき鳴らすことができる。余りにも多くの場合、われわれはそれを「祝福を得ること」と呼ぶ。それは紛れもなくわれわれを掻き立てて、われわれの気質の最も深い部分にまで及ぶ。しかし、家に帰る時には、せいぜい感情的刺激しかないのである。この感情的刺激は、他の刺激剤同様、しばしのあいだ元気づけてくれるが、後に残るのは頭痛と後悔である。

 また、純粋に霊的な礼拝でも魂の領域に引きずり下ろされるおそれがある。しかし、そうすることによって、われわれは神の麗しい御旨を成就する力を、それから奪ってしまうのである。肉欲があまりにも大声でわめくので、神の御声は次第に消えて行き、御霊から聞くことはすぐになくなってしまう。しかし、決して忘れてはならない。肉を御霊の領域にもたらすことは不可能である。神はそのようなことを決してお許しにならない。神はその扉を閉ざされる。

 われわれは魂の及ぶ限り上に向かって肉によって礼拝することもできるが、それより高く昇って霊の領域に至ることはできない。この旅が上向きか下向きかによって、魂が肉の及ぶ限り上に昇るか、あるいは、霊が下るかが決まる。肉は「霊の中に」達することはできないし、神の御霊は肉を扱おうとはなさらない。魂は両側に扉を持っており、一方が開かれるとき、他方は常に閉ざされる。これらは二つの異なる、区別された世界である。水の世界と大気の世界が遠く隔たっているように、これらの世界も同じように遠く隔たっている。魚が美しい山腹の緑の草を食べて生きることができないように、小羊も海の底では生きることができなかった。


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