肉と霊

 私はしばしば見てきたのだが、不和や分裂が生じる時、人々はしばしば賜物を用いることによって自分たちの立場を擁護しようとする。ある人は叫んで言う、「私は正しいが、他の連中は間違っている。なぜなら、神が未知の言語で私を通して語られたからです」。別の人は言う、「私は自分が正しいことを知っています。なぜなら、神は私が宣べ伝えるのを助けて下さり、私は聖霊の油塗りの下で語ったからです」。自分の立場を擁護しようとするわれわれの企てには、時として、御霊だけがなしうることを肉によって行おうとする決定的傾向がある。私の兄弟よ、神はあなたの間違いにもかかわらず――あなたの間違いのためではない――何度もあなたを祝福されるだろう。神が御自身を現すには、われわれ全員が絶対的完全に達するのを待たなければならなかったなら、きっと神はわれわれの中の一部の者たちのために長い時間待たなければならなかっただろう。私には私の賜物があり、あなたにはあなたの賜物がある。私には私の召命があり、あなたにはあなたの召命がある。手は足に向かって「あなたは物を掴めないから不要です」と言うことはできず、目は「見ることが出来ないから」という理由で耳を追放することはできない。多くの肢体があり、多くの賜物があるが、体はただ一つである。多くの肢体が多くの方法で機能する。多くの賜物が多くの方法で働く。しかし、依然として体はただ一つである。しかし、賜物が働く際には、完全な調和と素晴らしい協調がある。百の聖霊があるわけではない。聖霊は唯一である。私の内にはひとりの聖霊がおり、あなたの内には別の聖霊がいて、われわれに正反対のことをするよう告げる、ということはない。聖霊が私には「これは正しい」と告げ、あなたにはその同じ事は偽りであると告げることはない。分裂が生じる時、それは誰かがどこかで間違っていることの確かなしるしである。あなたたちの公の集会であなたたちが共に集まる目的は何か?祈りの集会のことを言っているのではない。上の部屋や待ち望む集会のことを議論しているのではない。私が尋ねているのは、あなたたちがキリストのからだの中で、そして教会の立場に立って共に集まる目的は何か?ということである。単にあなたが何かを受けるためだろうか、それとも何かを与えるためだろうか?単に祝福を受けるためだろうか、それとも祝福となるためだろうか?単に自分自身の魂の救いを確かなものとするためだろうか、それとも、あなたたちの門をくぐって来た罪人に真の救いを知らせて主イエスを見いだす手助けをするためだろうか?なぜ諸々の賜物が与えられているのか?単なる玩具や楽しみのためだろうか?賜物には目的があることを、あなたは心に信じているだろうか?各々の賜物にはある目的があるのではないだろうか?聖霊のどの働きにもある目的があるのではないだろうか?教会の務めは人々にキリストを指し示すことである。このからだの務めは奉仕の務めである。すべての肢体が一つの偉大な目的を視野に入れて調和をもって機能し、協力し、働くのである。宣教と伝道のビジョンを失う教会は、間もなく聖霊の臨在を失う教会である。その輝かしい機会に敏感で、跪いて、「主よ、私たちに魂を与えて下さい、私たちに魂を与えて下さい、私たちに魂を与えて下さい」と叫ぶ教会は、それを通して御霊が働かれる教会である。このような教会にこそ、聖霊は御自分の諸々の賜物をお与えになるのである。


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