われわれの勝利

 したがってこれが、必然的に自己に対する死が必要な理由である。主の主権と頭首権を認める必要があるのである。アダムの中に――堕落の前――永遠の命があった。神は彼を生ける魂に創造されたのである!アダムが命の創始者との関係を断った時、彼の上に死の判決が下された。そして、罪と死のための処罰を受けるために、最高の犠牲が必要になった。われわれの祝された主は人の姿を身にまとい、アダムの呪いの下にあった人性をことごとく御自身と共に死に渡すこと――十字架の死に渡すことを選ばれた。彼は地獄の中に下って行かれた。しかしその後、彼は高きところに昇って――輝かしい復活の命の中に入られたのである!

 この途方もない贖いの御業が成就されたので、「人々よ、罪深い道から立ち返って、主イエス・キリストを信じよ!」という叫びが島々や諸大陸に鳴り響いた。彼を自分の救い主として受け入れて、人々は救われたのである!彼を自分の贖い主として認めるとき、人々は贖いの中に入る。彼は人々の死を御自身と共に墓の中に携えて行き、暗い墓から勝利の内に出て来られた。彼の御声が時の回廊の中にこだました――「私は復活であり、命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて、私を信じる者は誰でも、決して死にません」。

 復活の命を得るためには、われわれは彼を受け入れるために「信じ」なければならない。彼から離れて復活の命を持つことはできない。これは偉大な基礎である!永遠の最重要事項である!他の道は無い。われわれは彼を受け入れなければならない!彼を受け入れるなら、自己の命は去らなければならない。なぜなら、一つの体の中にふたりの主人はありえないからである。双頭の生き物は常に奇怪である。相反する二つの支配の下では、争いと徹底的絶望とが絶えない。自己を明け渡して、われわれの救いの君としてキリストに王座に着いていただく時、贖われた子供は「魂よ、お前は何年分もの物を貯えた。楽にして、食べ飲みして楽しめ」ともはや叫ばなくなる。むしろ、「私にとって生きることはキリストです!」「私はキリストと共に十字架に付けられています。にもかかわらず私が生きているのは、私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。そして今、私が肉体にあって生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます。この御方は私を愛して、私のために御自身を与えて下さったのです」と叫ぶようになる。その時、あの輝かしい神の命の流れとうねりが生じる。これはもがきではない。安息である。力である。癒しである。力である。破壊的な爆発力ではなく――彼の命と喜びと平安の抗えない力である。


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