内側から外側へ

 主は郵便屋のように、御父からの贈り物を持って来て、それをわれわれの戸口に置いて、それから歩き去ってしまうのではない!聖書を郵便注文の目録のように用いようとする人もいる。彼らは自分の欲しいものを与えてくれるよう御父に願った後、天使の使者が自分たちに色々なものを持って来るのを期待する。自分自身の願いが満たされて、自分たちの必要が自分たちの願う方法で満たされるのを期待する。キリストがもたらす光は外側から中を照らすのではない。内側から外に向かって照り輝くのである!主は賜物を分け与え、それを管理・運用される。主は文字通り光を「与える」のではない。主が光なのである!主は健康を分与するのではない。主が健康なのである。主の内住を常に覚えるとき――いま肉体にあって生きているこの命を、われわれは、われわれのためにご自身をささげて、今われわれのうちに住んでおられる神の御子の信仰によって生きていることを悟るとき――われわれは主との生き生きとした合一の中にもたらされる。

 来臨するキリストのために、御霊により、われわれの内側に余地が設けられるのである!われわれの明け渡しと自己に対する死に応じて、キリストの光、命、愛がわれわれの存在のあらゆる部分に浸透するのである!おそらく、この造り変えは最初のうち、霊的なものでしかないかもしれない。おそらく、この造り変えはわれわれの霊の内側に住んでおられる御霊によってなされるだろう。御霊はわれわれに光と理解力と落ち着いた深い平安をもたらす。御霊が内側に住まわれる時、この平安は常に生活に満ち溢れる。

 主の恵みのこの経験の後、われわれの生活の中にそれが現れ始める。主の憐れみの杯が溢れて、肉体が主の復活の命を感じ始めるのである!これは奮闘ではなく安息である。苦悶ではなく平安である。キリストが内側に住んでおられること、そして、主がまつりごとを肩に担って下さっていることを意識するとき、われわれは主の御前で幸いな静けさにもたらされる。御声を聞くことができさえするなら、主の御声は優しい口調で「静まって、私こそ神であることを知れ」とわれわれの耳に何度囁かれることか。

 「そうです、私はこれを信じます!」と人は言うかもしれない。「これ」を信じるだけでは十分ではない。過ぎ去りし過去に犯したわれわれの問題は、まさに「これ」だった。主はわれわれに御自身を真理として受け入れるようわれわれに求めておられるのに、われわれは教理を真理として受け入れてきたのである。キリストのうちに健康、美徳、救いの力があることを「知る」だけでは十分ではない。われわれはキリストに内側に住んでもらう必要があるのである!キリストは御自身とは別に美徳を分与することはなさらない。癒しの奇跡は決して癒し主から切り離せないのである。

 われわれの哀れな、病んだ体と生活が造り変えられるのは、ただわれわれの暗闇が主の光の中に飲み尽くされることによるのである!主は――われわれの健康として――われわれの病を征服される。主は――われわれの力として――われわれの弱さを飲み尽くされる。われわれは主にあって強い。なぜなら突き詰めて考えると、主はわれわれを強くするのではなく、御自身の力をわれわれにお与えになるからである。主の臨在がこれをなす。われわれがなすのではない。イエスのうちに命があり、他の誰のうちにも無い!キリストとアダムが共に住まうことはない。第二のアダムが入って来られる前に、最初のアダムは出て行かなければならない。光が来る時、暗闇は一掃される。


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