神の愛

 ガラテヤ五・二十二は、信仰は御霊の実であると述べている。今はこれを信じ始めるべき時ではないだろうか?血で洗われた心と命という木に成長する他の恵みの実を見よ。まず、愛がある。われわれが愛するのは誰の愛によってか?自分の心の中に起きたことのゆえにさらに清められて甘さを増したわれわれ自身の愛によってだろうか?否、断じて否!聖霊によって心の中に注がれた神の愛によってである。心の各部分を満たす神の素晴らしい愛によってである。この神の愛を持つとき初めて、自分の敵を愛することが可能になる。

 ステパノが残忍で不正な人々によって石打ちにされた時、何が彼に「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫ばせたのか?効果を求めてこう言ったのではない!危機に際して英雄を気取ったのでもない。聖霊によって彼の心の中に注がれた神の愛のゆえに、彼は自分を呪う者たちを、自分を殺す者たちへの純粋な愛によって、祝福することができたのである!「そのように行動することは馬鹿げたことだ」とこの世は言うかもしれない。これは再生されていない人には馬鹿げているが――クリスチャンにはそうではない――恵みによって神の性質にあずかる者となっておらず贖われていない人には、これは馬鹿げている。

 それは真の愛だった――神の愛がステパノの心を通して湧き出して、恵みの源から川のように流れたのである。これはカルバリの苦しみの中で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と語られたわれわれの救い主に大いに似ていないだろうか?愛のゆえにイエスはこう仰せられたのである。神の愛のゆえである!地上をしばし訪問されたイエスの中にあった天の愛だったのである。

 ステパノとイエスが実際に同じことを言ったのは偶然ではなかった。ステパノは自分の主の真似をしようとしていたのではない。また、人々が努力して真似するよう、イエスはご自身をたんなる見本として示されたのでもない。実は、彼らが同じことを述べたのは、両者がこの同じ愛を持っていたからである。それは両者の心の中にある神の愛だったのである。イエスがそれを持っておられたのは、彼は神だったからである。ステパノがそれを持っていたのは、彼が自分の心の中に神を持っていたからである。

 人の愛は伸ばすことができる。その質と量を増すことにより良くすることができる。しかし、たとえ人が百万年生きたとしても、人はそれを神の愛に匹敵するほど良くすることは決してできない。われわれはどのようにして神の愛を得るのか?神がそれを与えて下さるのであり、御霊がそれを分与して下さるのである。これは神の愛に言えるだけでなく、神の信仰にも言える。


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