時としてわれわれが「信仰」と称するものは、信頼にすぎない。われわれは主に信頼する。しかし、信仰には足と翼と力がある。救いのための信仰を持てなかった人は救われない。その人は主に信頼して、いつの日かキリストのもとに行くことを約束できるかもしれない。しかし、救いのための信仰を得る時、それは救われていることを意味するのである。

 いま私が話したこの人の事例がそうだった。その晩の間に与えられた信仰がいかなるものだったにせよ、それは私から去ってしまった。しかし、それは他の誰かのために祈る時までのことだった。次の人は神の摂理と御旨により、神だけが与えることのできる祝福を神から受ける用意ができていた。そういうわけで、われわれが祈った次の人は女性だったのだが、集会全体の中で最も顕著な奇跡の一つになったのである。

 全く信仰に欠けているクリスチャンは一人もいない。信仰はその心の中に賜物、実として植え付けられている――その信仰はあなたの救いを維持するのに十分な信仰である。主に従って、主の目に喜ばしいことを行うのに十分な信仰である。しかし、その信仰を永らえさせるには、あなたは絶えず主に依り頼まなければならない。太陽を拒むなら光を保つことはできない。神の信仰を得ない限り、あなたは神を信じる信仰を持つことはできない。こういうわけで聖書は「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われたのです。これはあなたたち自身から出たことではなく、神の賜物です」と述べているのである。

 恵みと信仰は大いに密接に関係しているので、両者を分けることはできない。その不思議さは次の事実に存する。すなわち、多くの時、「自分は全く無価値である」とわれわれが感じている時に、信仰が分与されるのである。それは決して功徳の所産ではない。この信仰の賜物は、恵みという美しい花ではないだろうか?人生という荒海を静めるこの信仰は、操縦士は最後までわれわれの面倒を見て下さると教えて、心を幸いにしてくれる。この無上の持ち物は、われわれが何かを与えたり行ったりしたから臨んだのだろうか?

 この信仰――それが私に与えられたのは、私が主の衣の裾に触れて、痛みや苦しみを超越するためである――を受けたのは自分の言動のおかげである、と一瞬でもあえて言えるだろうか?試練の時にあなたが持っていたこの信仰――その時、開いた墓の横で、幻のうちに天が開かれたのである――悲しみのあまり、哀れな心は痛み、砕けそうだった時、天使の音楽が心の中に鳴り響いたのである――は、どのような方法で臨んだのか?また、どういう理由で臨んだのか?素晴らしい十字架を調べたところ、恵みがその使命と命の務めを果たす時、なぜ恵みが信仰に対して微笑むのか、その理由を私は部分的にではあるが理解し始めたのである。


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