何年も前のこと、私がブリティッシュコロンビア州のバンクーバーで集会をしていた時、ある出来事が起きた。その出来事のために、私は主の御前に心を開きつつ、ほぼ一晩中起きていた。その晩、数百名のために私は祈った。その集会中、救い主の甘くて素晴らしい臨在がひしひしと感じられた。多くの弱って疲れ切った体が、主の御手の接触によって新たにされた。彼らは痛みや病から解放されて、十字架のふもとに跪いた。私は第一バプテスト教会の牧師であるガブリエル・マギーレ博士の方を向いて言った、「今晩、主は信仰を分与しておられます。主の力が癒しのために臨んでいます」。彼は、「自分の人生でこれほど神の力の動きを感じたことはありません」と応えた。

 一分後、われわれはある人の頭の上に一緒に手を置いた。真空のような感覚が私に臨んだ。とても空しく感じたのである。主の臨在は私と共にあったが、その人のために祈るための確信も信仰も私にはなかった。そして、その人に何も起きなかったのである!私は再び祈った。すると、とても空しく感じたので、私は叫んで「あなたは最前までとてもすばらしくご自身を現しておられたのに、なぜ今はまるで去ってしまったかのように思われるのですか」と主に尋ねそうになった。そうする代わりに、私はその人の方を向いて言って、「兄弟、どうしてあなたはここにいるのですか?あなたはどなたですか?あなたがこの壇上に来た目的は何ですか?」

 彼は青ざめた。そして告白したのである!「私は専門家の催眠術師です」と彼は私に告げた。「この集会の力は催眠術の力です」と彼は述べた。彼はそのことで他の人々と議論して、自分を実験台にすることを決めたのだった。自分で直接調べることを望んだからである。彼は公の集会の機会を捉えて、神癒運動全体を暴くことを計画した。さて、この人は本当に病気だった!癒しを必要としていた。しかし、彼のための信仰を私が持っていたと仮定してみよ。この人に癒しをもたらしていたら、悲惨な結果になっていたのではないだろうか?というのは、思い出して欲しいのだが、信仰が無力のとき――それは信仰ではなくなるからである。動きを伴わずに動くことはできないように、それ以上に、結果を伴わない信仰はありえないのである。


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