これが話の要点である。キリストは不足しているものを与えて下さる。必要を満たして下さる。イエスが変容の栄光の光景から山の麓に降りて来た時、彼は哀れな不幸な父親と無力な弟子たちの一団を見いだした。弟子たちは、神の御子の信仰によってしかなしえないことを、自分たちの信仰によってなそうとしていた。父親は正直にこう言った、「主よ、信じます。私の不信仰を助けて下さい」。この弟子たちは苦闘し、叫び、叱責し、悪魔を追い出そうとしていた――しかし、効を奏さなかった。現代もこの光景が何度も何度も繰り返されてきたのではないだろうか?しかしイエスが歩いて登場された時、雰囲気は何とたちまち見事にすっかり変化して様変わりしたことか。

 その嵐の中から静けさが生じた。その大嵐の中から麗しい平和が生じた。イエスはこの状況の支配者だった。幸いなのは父親だった。この父親はその日、優しい同情心を持つ御方が近づいて下さるのを見た。この御方の心は思いやりによって突き動かされており、神の愛で溢れていた。最も大事なのは、イエスに語りかけることである。自分の苦闘をやめて、執り成しから彼に対する信頼と確信へと向きを変えることである。そうすれば、彼だけが与えうる信仰を分与してもらえるのである。

 二十数年以上、私はいくつもの集会を導いてきた。それらの集会では、病人や苦しんでいる人のために祈るための高い場所が設けられていた。この務めに私の主は私を召されたのであり、この召しに私は心を尽くして応じてきた。主に栄光と賛美がありますように。盲人の目が開かれるのを私は見てきたことをここに記す。神の力の奇跡によって足なえたちは立ち上がり、麻痺している人たちは自分の車イスや簡易ベッドから立ち、癌や腫瘍はわれわれの素晴らしい主の癒しの力によって溶け去ったのである。

 しかし――私が何に気づいたかお分かりだろうか?偉大な癒しの奉仕には、どの場合も、数晩に及ぶ献身と祈りの時とが先立っていたのである。群衆が癒しを求めて前に押し寄せた時、集会は厳しい困難なものになった。彼らが癒しよりも癒し主を求めた時、甘い主の臨在が敵の力を打ち破った。そして、主の臨在の陽光が、心を捉えていた氷のような感情を溶かし去った。自己憐憫や自己愛に促されてわれわれは主の足下に行くかもしれない。しかし、われわれの見解はすっかり変わってしまうのである―― 一度そこに行くなら――遂に主にまみえる時に!


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ