キリストの完全さ

 マルコ五・二十七~二十八は、この偉大な真理の美しい絵図をわれわれに与える。アレキサンダー・マクラーレンは言う、「この物語の主な部分は、不完全な信仰の純粋さと力、そして、そのような信仰に応答してこれを強めて下さるキリストの憐れみ深いなさりようとを示すこの絵図であるように思われる」。この女を見よ。彼女はイエスが通り過ぎるのを許した。その後、おずおずと尻込みしつつ、群衆を掻き分けて、彼の衣に触れる場所に進んで行った。彼の衣には何か特別な魔法がかかっている、と彼女は信じていたのだろうか?

 衣に触れた後、彼女は群衆に紛れようとしたことだろう。彼女の近づき方は、われわれが習慣的に「信仰」と称してきたものを彼女が持っていなかった証拠である。彼女は彼に「御言葉を一言下さい」とは頼まなかった。しかし、哀れな無知の状態のまま、彼女は主に近づいて触れた。すると、癒されたのである!直ちにである。その癒しと奇跡を成就した功績はキリストにあることを、この記録は述べている。

 この物語が伝える使信は、全く次の事実にある。すなわち、このような癒しは、自己の働きによって完全な信仰を育むことには全くよらないのである。むしろ、イエスに触れることによるのである。イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者である。そして、あらゆる良い完全な賜物の与え主である。

 もう一度マクラーレン博士の言葉を引用しよう:信仰の力と活力は、信条の包括性や明確さによって測られるものではない。最も肥沃な土でも縮んだ不毛な穂を実らせるかもしれない。また、土の層がごく僅かしかない渇いた砂の上に、華やかなサボテンが花開くかもしれない。そして、新鮮なアロエが枝を伸ばして水分を貯え、サボテンが熱に耐えるのを助けるかもしれない。無知がどれくらいひどければ、イエス・キリストに対する真の確信に害を及ぼすのか、われわれにはわからない。しかし、自分の視野がどれほど狭く感じたとしても、また、結局のところ、キリスト教圏の大勢の人がほんの僅かしか神学上の真理を知らなかったとしても、また、自分の貧弱な能力では乗り越えることも見通すこともできない聳え立つ壁にわれわれがいかにすぐに直面したとしても、次の事実をわれわれは喜ぶべきである。すなわち、無知によって曇らさている信仰でも、キリストはそれを受け入れて下さるかもしれないのである。


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