私は信じている。キリストのもとに行って、「あなたの信仰を分け与えて下さい」と求めることの方が、自分自身の信仰を高めて生み出そうとすることよりも容易である、と。御言葉を思い起こさなければ――御言葉から離れようものなら、われわれは道に迷ってしまう――御言葉を誤って解釈してしまう大きな危険性がある。主は御自分のもとに来た人々の信仰について多くの事例で述べておられることを、われわれは認めなければならない。人々が信仰を持っていたゆえに、主はご自身の麗しい方法で人々を誉めることも時にはあった。私の疑問は、彼らが信仰を持っていたかどうかではなく、彼らはどこで信仰を得たのか?ということである。

 サムソンには力があった。その力で彼は全く超人的な力ある偉業を達成した。しかし、彼はどこでその力を得たのか?彼は、われわれが霊的な方法で成るよう勧められているものを、肉体的な方法で示す見本だった。「主にあって、またその力によって強くなりなさい」。パウロは、自分は強い、と宣言した。それでも、彼は絶えず自分の弱さを認めていた。しかし、彼は「私は私を強めて下さるキリストを通して何でもすることができます」と宣言した人ではなかっただろうか?

 奇跡的に全く魚がとれなかったあの素晴らしい出来事を、あなたは覚えているだろうか?早朝の薄暗い夜明けがガリラヤ湖の青い水面を静かに覆いつつあった。弟子たちは自分自身の力で一晩中働いたが、何もとれなかった。彼らが岸に向かって引き上げようとした時、ガリラヤのよそ者の輪郭が緑の丘を背景にして浮かび上がった。彼は不漁だった人々が来るのを待っていた。すると、その声が響いた。

 「子供たちよ、何か食べるものを持っていますか?」。彼らは何も持っていなかった。彼らはくたくたになって働いた長い夜の労役から戻ってくるところだった――手は全く空っぽだった。彼にはそれが分かっていた。小魚一匹とれなかったことを彼は知っていた。長いあいだ暗闇の中で労苦した報酬に見合うものは何も与えられなかったのである。そこで彼は、反対側に網を投じるよう、彼らに告げた。

 彼らが従った時、彼らの目は驚きで大きく見開かれたにちがいない。魚が網にかかる感触があったのである。彼らは網を引くことができなかった。イエスの指示に従ったところ、たちまち多くの魚がとれた。自分の努力で一晩かけてとった魚よりも多くの魚がとれたのである。素晴らしい物語だ、とあなたは言うだろうか?確かに。しかし、この物語の最も素晴らしい箇所に私はまだ来ていない!この物語全体の中で最も信じ難い素晴らしい部分は、イエスが次に語られた御言葉である。

 何という気前よさ!何という慈愛と優しさ!「あなたたちが今とった魚を持って来なさい」と彼は仰せられた。誰がそれらの魚をとったのか?「あなたたちがとった」とイエスは言われた。しかし、私は再び問う、「誰がそれらの魚をとったのか?」。誰がとったのか、あなたも私と同じく知っている。それはイエスであった。しかし、彼は「あなたたちがとった」と言われた。このように彼はわれわれの信仰、愛、あれやこれやのことを――まるでわれわれの功績であるかのように――ご自身からではないものとして話されるのである。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ