癒しではなく癒し主を求めよ

 われわれの主な問題は、癒し主の代わりに癒しを求めていることである。光を求めているときに太陽を拒んで何になろう?聖書で述べられているあの女性は、長血の問題を抱えていたが、知的理解力による解放という命綱を握ろうともがいていなかった。彼女の望みはイエスのもとに行くことだけだった。エリコの路上にいた哀れな、盲目の、みすぼらしい不幸な人がしたのは、心からの叫び声を上げて、その叫びの中に自分自身の無力さという物語と、ナザレのイエスの愛と力と同情を信じる信仰とを込めることだけだった。われわれの祝された主は彼に「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われたが、それでも、彼が持っていた信仰は主ご自身によって与えられたものである、と私は確信している。

 埃っぽいエリコの道を僅か数フィート歩いただけで、癒しに必要な信仰を生み出せるだろうか?昔の時代、ナザレ人の臨在が信仰の源だった。疑いと不信仰の時代である今日も、イエスの臨在がわれわれの信仰の源である。「私なしでは、あなたたちには何もできない」とイエスが言われた通りである。

 イエスの弟子たちはローマ人への手紙の十二章を読むのが実に好きである。それは、分離・聖別されたクリスチャン生活の素晴らしい諸々の可能性を示している!しかしそれは、肉的なクリスチャンたちが触れたがらない種類の福音である。パウロはクリスチャンたちに懇願している――主の子供たちに求めている。良いものから優ったものへ、優ったものから更に優ったものへと前進するよう懇願している。彼らはこの世に同形化されてはならない。むしろ、造り変えられるべきである――文字通り、変容されるべきである。これは思いを新たにすることによってなされる。このギリシャ語は刷新である。芝生を刷新する時は、古いのを取り除いて新しいのを植える。何が良いものであって、神に受け入れられる、完全なものなのかをわきまえることができるようになるには、この刷新が必要である(ローマ十二・二)。

 これが起きる時、われわれはいかなる態度を取るべきか?パウロは手紙の中でこう続けている、「私は、自分に与えられた恵みを通して、あなたたち一人一人に言う。思うべき限度を越えて思い上がることなく、むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」。これは重要である!神は各自に信仰の量りを分け与えて下さる。どのような量りか?どのくらいの量か?それは一節と二節にかかっている。一節と二節が三節の前にある。要点は――神が信仰を与えて下さる、ということである。神が信仰を量られるのである!このギリシャ語は、逐語訳ではこう述べている。「各自に神は信仰の量りを分割された」。ウェイマスは現代口語訳でこう述べている、「神が各自に割り当てられた信仰の量にしたがって」。


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