そのベタニヤの道は、その丘の周囲をうねっていた。その丘は一方に向かって高くそびえ立っており、その終点はエルサレムの城壁だった。反対の方角を見ると、その道は螺旋状に下って行き、狭くて汚れているゴツゴツした無人の田園に通じていた。その田園は遥かギルガル平原と死海へと伸びていた。ある日のこと、イエスとその弟子たちが、エルサレムへの途上、この道に沿って歩いていた。イエスは飢えておられた。ほとんどありえないように思われるが、それでも飢えておられたのである。

 世界の中で育っているものはみな神ご自身の創造的な能力と御力のおかげなのに、その世界で神が飢えておられるのを想像してみよ。しかし、イエスは人でもあった。彼が御座と王冠を離れた時、それは人々と喜びや悲しみを分かち合うためであり、日々の生活の諸々の問題さえも分かち合うためだった。彼はわれわれのすべての問題をご存じであるだけでなく、それらをわれわれと分かち合っても下さるのである。

 その丘の斜面には葉の茂った一本のイチジクの木があった。主とその弟子たちは、何か実がなっていないかどうかを見るために、その木に近づいた。その木には葉しかなかった。枝に実は何もなかった。イチジクはまったく見えなかった。それはイチジクがないイチジクの木だった。それで主はそれを呪い、「今後、誰もお前の実を二度と食べることはない。もはや二度と実を結ばないからである」と宣言された。さて、なぜイエスはそうされたのか?その木に近づく前から、彼は何の実もないことをご存じだった。ナタナエルを見ていなかったのに、彼にはナタナエルがイチジクの木の下にいるのが見えたからには、そのイチジクの木にもしイチジクがあれば、彼にはそれも見えたのではないだろうか?

 イエスは目的を持たずに物事を行ったことは決してなかった。彼の言動の裏には常にある動機があった。その出来事にはある意義があったにちがいない。その時、彼には弟子たちに示したい教訓があったのである。というのは、もしその出来事に教訓がなければ、それは決して起きなかっただろうからである。そこにはあなたや私のために残すことを彼が願われた教訓があったのである。というのは、もしそのような動機がなければ、その出来事が聖書の貴重なページを占めることがそもそもあっただろうか?その教訓とは何だったのか、そして主はなぜそれを教えられたのか?

 エルサレムの中に、私の主は従者たちを連れて入って行かれた。宮の中から、彼らは商売根性で聖なる場所を汚していた商人たちを追い払った。翌日、彼らはベタニヤの道に戻った。ペテロはそのイチジクの木を見た。彼はそれが死んで――干上がり――萎んでいるのに気づいた。驚愕して、「主よ、見て下さい!」と彼は叫び、そのイチジクの木を指して、その木が萎みきっている事実に注意を喚起した。そこでイエスは語られた――ペテロだけでなく、彼ら全員に語られた。これがその目的だった。これは実物教材だったのである。人となられた神はこの実物教材を用いようとされたのである。それは、人々が自分の人間性によって神を理解できるようになるためだった。この木を呪った背後には一つの動機があったのである。だからイエスは「神を信じよ」と仰せられたのである。

 私の横に私のギリシャ語聖書がある。ギリシャ語の文章構造はわれわれの英語とは異なっていることを念頭に置きつつ、語句が現れる順番通りにこの全文を一語づつ引用することにしよう。ギリシャ語の文章はこうである、「そして答えて、イエスは彼らに言われた、『あなたたちは神の信仰を持っているのですか?』」。これが実際の、原文からの逐語訳である。

 それから主は続けて弟子たちに仰せられた、「もしあなたたちにそのような信仰があるなら、そのような信仰を行使することにより、一本の小さなイチジクの木を干上がらせるだけでなく、あの山々を移して海に投げ込むこともできるのです」。その教訓は、神の信仰である信仰の圧倒的力を教えるための教訓だったのである。それは実に山を移す信仰だった。その条件の一つは、マルコによる福音書十一章二十二から二十六節の記録を読むと分かるように、奇跡の成就に関する疑いが心の中に全くないことである――「自分が願って祈り求めることは成就する」という信仰しかないことである。これらの条件が満たされる時、奇跡――いかなる奇跡であろうと――が起きざるをえない。なぜなら、その背後には神の御言葉があり、神の御言葉の背後には神の力があるからである。そのイチジクの木、その山、存在する万物を造ったのは神の力である。というのは、それは永遠なる御方の創造的能力だったからである。この御方は存在する万物を生じさせられたのである。その御言葉が混沌の中から宇宙を生じさせたのである。

 今、「聖霊を神聖な真理と共に遣わして、照らす光である臨在の光を私たちの知性と心にもたらして下さい」と神に求めようではないか。一般的に言って、われわれはこの御言葉を「神を信じよ」と解釈して、「自分たちには山を移す神の力に対する確信がある」という意味に受け取っている。われわれは自分の心の中でこう言っているのである、「神を信じる十分な信仰が自分にありさえすれば。十分しっかりと信じられさえすれば。自分の心の中から疑いを追い払えさえすれば。そうすれば、神はこの山を移して下さるのに」。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ