生ける信仰

 いつわれわれは自分の愚かしい不要な葛藤をやめて、信じるようになるのだろう?いつわれわれは、自分にはない信仰を見いだそうと試みる非聖書的な精神的・知的堂々巡りに終止符を打つのだろう?というのは、神からそれを得ない限り、われわれは決して信仰を持てないからである!信条を抱くことはできても、聖書的信仰を行使することには全く失敗することがありえるのである。信条は信仰である、と考える過ちに数千もの人々が陥ってきた。そうではない。信仰が信条を含むことに間違いはない。しかし、「悪魔も信じている」のである。信条は冷たく――知的なものである。人が知的領域を進んでいる間は、信条は機能する。多くの罪深い人々が聖書を信じているが、そのような信条は彼らを救わない。

 信仰は生きているものである。それは進んで機能して、その抗えない行進の前から魂の敵を一掃する。この世のありったけの信仰が必要なのだろうか?否!それが神の信仰であるなら、からし種一粒ほどの信仰で十分である!そのとき、山々は移されるのである。罪に病んだあなたの魂は主の栄光を見る。しかし、それは神の信仰でなければならない。それは神から来なければならない。神がそれを分与しなければならない。そして、神はそうして下さる。これが私の信じる恵みの福音である。

 イエスが共におられなければエリコの道はエリコの道にすぎない。イエスが共におられるなら、それは救いと癒しの輝かしい大路である。その岩々ですら彼の栄光を叫ぶ。イエスが共におられなければ、その塵は薄汚く、その涙は痛々しく、その盲目さはあまりにも暗い。しかしイエスが共におられるなら、その塵は恵みと栄光の花々を育み、その涙は真珠に転じ、その盲目さと暗闇は光に変えられる。エリコの道を変容させる奇跡にはイエスの臨在が必要なのである。

 あの盲人は砂の中に座って、「自分は癒される――自分は見えるようになる――自分は見えるようになる――今信じることができさえすれば、自分は癒されて見えるようになる。そうならこうなる!」と自問自答しなかった。否。彼はナザレのイエスが通りかかられることを聞いたのである。彼は叫んだ、「イエス様!イエス様!私を助けて下さい!どうか私を助けて下さい、自分ではどうしようもないからです!」。これに対してイエスが語られた言葉を忘れてはならない、「あなたは私にどうしてほしいのか?」。「あなたはどうしたいのか」ではなく、「あなたは私にどうしてほしいのか?」と仰せられたことに注意せよ。「あなたの道を行きなさい。あなたの信仰があなたを健やかにしたのです」とイエスが仰せられたのは事実である。「あなたの信仰」とイエスは仰せられた。その盲人はこれをどこで得たのか?誰がそれを彼に与えたのか?もしそれが常々彼の信仰だったのなら、イエスがその道に来られる前にどうして彼は癒されなかったのか?もしあなたが私に時計をくれるなら、それは私の時計になる。しかし、私はそれをあなたからもらったのである。書いている間も私の心の中には信仰がある。しかし、自分がそれをどこで得たのか、私にはわかっている。確証からではない――意志からではない――信条からではない――知的把握力や理解力からではない――イエスからである。イエスはわれわれの信仰の創始者であり、完成者である。ああ、比類ない恵み!ああ、神聖な愛、全く卓越した愛!こうして天の喜びが地上に下って来たのである!


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