そうではないだろうか?これが神の救いの道である。「御子を受け入れた者たち、すなわちその御名を信じる者たちに、彼は神の子供となる力をお与えになった」。私が祭壇への招きをするとき、私はすべての男性、すべての女性に、自分の心と命をキリストに明け渡すよう招く。われわれの救いが信仰によるのだとすると、すべての人が信仰を受けて持っているとどうして分かるのだろう?私が招く人がみな永遠の命を見いだせるとどうして分かるのだろう?信仰を持っている人もいれば、全く信仰に欠けている人もいるかもしれない。人々があなたの言うことを信じていたとしても、その事実は彼らが信仰を持っていることを意味しない。この信条や、心の飢えを、罪の赦しの経験的知識に転換する信仰を持っていることを意味しないのである。

 それにもかかわらず、「誰でも望む人は来なさい」と私は叫ぶ。なぜなら、すべての誠実な人が必要とする信仰を主は分与して下さることを、私は知っているからである。ヨハネによる福音書の一章十二節を私は引用した。「御子を受け入れた者たち、すなわちその御名を信じる者たちに、彼は神の子供となる力をお与えになった」。次の節も引用しよう。こう述べている、「この人々は、血すじによらず、肉の意志によらず、また人の意志によらず、ただ神から生まれた(すなわち、再生された)のである」。

 聖霊は罪人に自分の罪を認めさせるが、この同じ聖霊は、罪人に十分な認罪が与えられたら、今度は自分の救いを認めるのに十分な信仰が与えられるように配慮される。しかし、自分自身によってこの信仰を持っている人は誰もいない。「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われたのです。これはあなたたち自身から出たものではなく、神の賜物です」とわれわれは告げられているのではないだろうか。貧しく、みすぼらしい、惨めで、無知な、不信の人類は、そのように不信仰な堕落した心では、救い主を受け入れるどころか、救い主を信じる十分な信仰を育むことも発達させることも決してできない。だから、聖霊は救い主の必要性に関する確信を分与するだけでなく、救い主を受け入れるための信仰をも分与されるのである。

 キリストを自分の救い主として受け入れたのは自分の信仰である、と決して思ってはならない。「自分の行動が自分の贖いの基礎だった」と決して言ってはならない。サマリヤの道ばたの井戸の脇で女に語られた水を分与してくれるのは、イエスである。あなたが背負っている重荷の下に愛の御手を置いて、それをあなたの疲れ切った体から持ち上げてくれるのは、イエスである。ボロボロの打ち砕かれた心に天の喜びの油を注いでくれるのは、イエスである。母親のような手で優しく触れて、しわを伸ばしてくれるのは、イエスである。あなたを夜の暗闇の中から連れ出して、ご自身の輝かしい素晴らしい日の中にもたらしてくれるのは、イエスである。

 「ああ、この御方はイエスです。確かに、この御方はイエスです。
 確かに、この御方は私の魂の中におられるイエスです。
 なぜなら、この御方の衣の裾に触れると、
 この御方の血が私を健やかにしたからです!」


 これを歌い、叫べ。近くにいる人にも遠くにいる人にも、これを宣言し、これを告げよ。この御方の血――この御方の恵み――この御方の御力――この御方の赦し――この御方の信仰を!


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