信仰は命である

 根は、地上の麗しい緑樹に比べると、醜くて硬い。それでも、緑樹がそこに立っているのは、一つにはこれらの根のおかげである。さて、この木の頂上を「愛」と呼ぶことにしよう。あなたはそれを見ることができる。それに触れることができる。その香りを楽しむことができる。その美しさを見ることができる。木がそこにあるのはその背後にあるもののおかげである――それを生じさせているものが隠されているのである。それは根である。さて、「その根とは信仰の根である」と私は言おうとしている、とあなたは予想しているかもしれない。だがそうではない!信仰は根の中に流れ込む命である。命はただ神だけが生み出して与えることができる神秘的資質である。植えても決して、決して成長しない根もある。

 あなた自身と、あなたの内的性質こそが、この根である。あなたの諸々の感覚や、命そのものの表れに対するあなたの近づき方は、人々には見えない表面下に埋まっている。この世が見るのは、ただあなたが生み出すものだけであって、あなた自身ではない。イエスが「その実によって、あなたたちは彼らを見分けることができる」と言われた時、それは何を意味したのか?あなたは彼らを見分けることができる。生み出された実は、その木が実際には何なのかを示す指標なのである。

 繰りかえそう。この木の根は信仰ではない。根は命を生み出さないが、命は根を生み出す。この命とは信仰である。それは素晴らしい卓越した資質であり、神の御心の賜物であってわれわれを支えるものである。この命もしくは信仰は、われわれが結ぶ実によってこの世に明らかになる。差し伸ばされた愛の手によって、神からの恵みと美によって、われわれの生活という木の上で日毎に明らかになる。

 この木が自分に流れ込むこの命を造り出そうともがくなら、それは何と愚かなことだろう。木がなすべきことは、ただ神の法則に従って機能することだけである。命がそこにあるので、木は結ぶ実によってこの命を自然に現す。また、美を現して、それをこの世界に与える。

 信仰もそうである。愛は世界で最も偉大なものかもしれないが、信仰は必ず最初のものでなければならない。信仰がなければ神を喜ばすことはできない。しかし、「自分には信仰がある」とあなたは私に言う。「それをどこで得たのか?」と私はあなたに尋ねる。私は木から赤みがかったリンゴをもぎとった。そのリンゴがその小さな心の奥底から証しするのが、私には聞こえる。「自分には赤みがかった頬がある」とそれは私に告げる。「とてもおいしいですよ」と、それは私の耳にささやく。「その香りをかいでみて」とそれは私を誘う。「自分にはたくさんの気高くて美しい資質がある」と、それは証しする。そこで、「それをみなどこで得たのか?」と私は尋ねる。

 枝からか?葉の覆いや、雨や太陽からか?確かに、どれも正しい。しかし、私は知っている。下方に隠れた組織があって、目には見えないが、根が神からの何かを受けていたのである。それは地表のどの木もかつて自分で生み出せなかったものである!


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