私は彼に、私がかつて訪問した家の物語を話した。その家はイエスが水をブドウ酒に変えた家だった。これらの壺の前に立った時、この無価値な私の心に聖霊が語って下さったことの中から、私は彼に話した。「主がガリラヤのカナでなさった奇跡に関する聖書の物語を、あなたは信じますか」と私は彼に尋ねた。「信じます」と彼は私に言った。カナでのあの午後に思いを馳せた時、私は聖霊の臨在の温かい光を感じた。

 これが、その日私が受けた教訓である。弟子たちだけでなくイエスの母もそこにいたが、「水がブドウ酒に変わる」と彼らが信じるだけで、その水はブドウ酒に変わっただろうか?それには神聖な口から発せられた命令が必要だったのである!神ご自身の御手による接触が必要だったのである。彼らは壺を水で満たすことはできた。縁まで満たすことはできた。壺を指定の場所に運ぶことはできた。彼がするよう言われたことをすることはできた。

 彼は無理なことをするよう人に求めることは決してなさらない。その力を彼はご自身で保有しておられるのである。

 神にはすべてが可能である。しかしマルコ(九・二十三)は、「もし信じることができるなら、信じる者にはすべてが可能である」とわれわれに告げる。イエスがここで述べておられる信仰は、知的信仰や精神的黙認ではなく、心で信じることである。これが信仰である。これはマタイが告げる、気が触れた少年の記事からわかる。この記事についてはすでに触れた。マタイによるこの記事では、「もしあなたに一粒のからし種のような信仰があるなら」とイエスは言われた。他方、マルコが記録した物語では、「もしあなたが信じるなら」となっている。だから、マルコが言う「信じること」とマタイが言う「信仰」とは同じである。これが私の要点である。これが、神の御霊が私の哀れな目に見つめさせているものである。この信仰は知的なものではなく、霊的なものなのである。それはもっぱら心に属するものである――知性に属するものではない。正真正銘の聖書的信仰は、「それはなされたと見なす」われわれの能力ではなく、神によって人の心の中に分与される「それはなされた」という深い意識である。

 そこで、私は車イスの老人に私の物語を話した。朝の太陽の微笑みと口づけによって一輪の花が開くのを、あなたはこれまで見たことがあるだろうか?その日、その親愛なる老人の顔を見た時、私はそこに一輪の花を見た。その老人は家に帰って、「ナザレのイエスがあなたの人生のエリコの道を通られる」という知らせを天使の声が自分の魂の中にささやかれるまで忍耐して待った。

 数晩後、彼は車イスに乗って戻って来た。私は彼に会った。「私は今晩歩きます」と彼は宣言した。彼の目に暗いところはなかった。丘の上に太陽が昇ったからである。薄明かりと称されている、暗闇と光の間の戦いは必要なかった。太陽の光が地に口づけしたからである!車イスから彼は立ち上がって、祭壇まで歩いて行った。それから、崇敬と賛美と礼拝の念でひざまずいて、感謝の心を注ぎだした。ただ神からのみ来る信仰のゆえに感謝したのである。


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