真剣にこの問題に直面しようではないか。開いた、明け渡された心で、「光と真理を送って、われわれをこの聖なる山に導いて下さい」と聖霊に求めようではないか。信仰の祈りと思っている祈りを祈ったのに何も起きないなら、われわれが信仰だと思っていたのは全く信仰ではなかったことは明らかではないだろうか?「一粒のからし種のような信仰は、功を奏することもあれば、効を奏さないこともある」とイエスは言われただろうか?「信仰は効き目がある時もあれば、効き目が無い時もある」と告げられただろうか?御言葉を読んでほしい。彼の宣言は明確、簡潔、平易である。あいまいな点は一切無い。それは、永遠の神ご自身の御口と御心から発した、事実の平易な叙述である。誰が神以上の権威をもって語ることができよう?

 この信仰が働く時はいつでも、また、それが働いている所ではどこでも、われわれはもはや昔日のように、哀れな病んでいる人々の周りに立って、何時間も叱責、命令、要求、苦闘、嘆願を続ける必要はない。執り成しの祈りが必要な場合もあるかもしれないが、信仰の行使においてはそうではない。執り成しの祈りと心の祈りが信仰の働きに先立つかもしれないが、神の信仰が分与される時、嵐は止み、魂の中に大いなる静けさと深い確固たる平安が臨む。感謝と賛美の声が唯一の音となる。病を去らせたのはわれわれの信じる力ではなく、むしろ神が分与された信仰であること――その全き理解が魂中に広がる。そして、われわれの魂の中に朝――輝かしい朝が臨む。この朝の中で信じることが可能になる……この朝の中で愛することが可能になる……この朝の中で確信を持つことが可能になる……しかし、ただ神だけがこの朝を送ることができるのである。主だけがそうすることができる。われわれは癒しを信じることができる……われわれの祝福された贖い主とその癒しの力を信じることができる……しかし、ただ主イエス・キリスト、この御方だけが、我々を勝利の山頂に引き上げる働きをすることができるのである。


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