主な困難の一つは、信仰は神ご自身によって心に分与されるもので、受け取ることしかできないことを、われわれは理解しそこなってきたことである。あなたには信仰があるかないかのいずれかである。あなたは信仰を造り出せない……信仰を完成させることはできない。約束を信じていても、それと同時に、それを適用するための信仰を持っていないこともありうる。しかし、われわれは信条によって適用しようとする習慣を培ってきた。信条は精神的性格のものであること、そして、ある経験を信じ込もうとするなら形而上学的領域の中に入り込んでしまうことを、われわれは忘れていたのである。

 しかし、信仰は霊的なものである……温かくて活力がある……それは生きており、脈打っている。信仰が主によって心の中に分与される時、その力に抗うことはできない。人が信じて義とされるのは心によってである。心で信じることは、われわれと主との間の交流の扉を開き、こうして神によって分与された信仰が可能になる。

 われわれのほとんどにとって、信仰の観念は信じようと苦闘する結果になっている、というのは事実ではないだろうか?もしかすると、そのような苦闘により、われわれは堅く信じる地点に最終的に至ったのかもしれない。しかし次に、祈り求めたものを受けなかった事実にとまどうのである。このような信条は霊感された御言葉が信仰と呼ぶものでは必ずしもないことを、われわれは理解しなければならない。後の章で、この警告の正しさを疑いの影が少しもなくなるほど証明する、多くの御言葉をあなたに示そう。

 神の御言葉によると、われわれに必要なのはからし種一粒ほどの信仰だけである。この信仰があれば、この世が「信じられない、不可能だ」と言うことが起きる。われわれが導いた諸々の集会の間、聖書の物語がわれわれの目の前で実演されるのを、われわれは何度見てきたことか!

 マタイによる福音書十七章は、対比を示す章である。それは高みに登り、それからどん底に落ちる。この章は、からし種、絶望と変容の山々について告げる。しかし、この貴重な御言葉を通して、聖霊は信仰というこの偉大な主題に関して、あなたや私に何という教訓を与えてくれることか。変容の山の頂上から、われわれの祝された主は降りてこられた。天の門から降りてこられた。そこでは、栄光のそよ風が主の頬に口づけし、天使たちは光の織機で織られた衣で主の肩を包んだ。主は聖なる交わりと励ましの場所から、人の敗北とおそらく絶望の場所へと下られた。栄光の山の麓に谷があって、それを縫って人の困惑という小道がうねっていたからである。

 そこに病があった。打ち砕かれて血を流している心がそこにあった。障害に遭遇して、霊も心も打ち砕かれた一人の父親がそこにいた。説教者たちもそこにいた。彼らは処方箋通りに行った。悪魔を叱責した。われわれが何回もしてきたように、叫び、呻いた。しかし、彼らが祈り求めたことは決して起こらなかった。あなたや私と同じように。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ