あなたも同様だろう。あなたの教会にも、病気で困っている群衆がいる。彼らは主を愛している……彼らは主に献げきっている……それにもかかわらず、祈りに応えてもらって肉体上の重荷を大いに取り去ってもらう必要があるように思われる。福音の奉仕者たちは私を何回も脇に引き寄せて、彼らの落胆ぶりについて告げた。彼らは神を信じる積極的信仰を行使できないらしい、というのである。困っている人が来て栄光が下ることがたまにある、という事実がなければ、これらの奉仕者たちの多くは、祈りのお願いが寄せられるたびに、逃げ出したくなっていただろう。この人々は神の人ではない、ということではない――彼らは神の人なのである!彼らは自分の召しに対して忠実であり、主に対して忠実である。なのに、御言葉と経験との間の矛盾と思しきものを前にして、困惑して立ち尽くしているのである。

 「イエスは決してしくじらない」と歌ってから、祝福の後に病人が痛み、病、病気をかかえたまま出て行くのを見るのは、全く正しいことではないように思われる。懇願する者に「ただ信ぜよ」と言って去らせることと、この問題を自分の頭と心の中から追い払うこととは、別の問題である。もしあなたが神の御前で本当に心から正直なら、そうだろう。癒しが起きる前に、信仰や約束に基づいて癒しを証しすることは、ほとんどの場合、賢明なことではないし、信仰が実際には無い場合、決して許されることではない。信仰があったとしても、二重の声で証しできることの方が遥かに優っている。その二重の声とは、一方は賛美と感謝という耳に聞こえる声であり、他方は肉体的症状という耳に聞こえない声である。

 信仰―― 一粒のからし種ほどの重さの信仰――には、断固たる意志や決意に満ちた心以上に効力があることを覚えよ。太陽が光と熱を伴わずに輝くことはないように、真の信仰が結果を生じないことは決してない。これを理解して、その正しさを信じるなら、われわれが間違って信仰と称しているものは何なのか?なぜなら、真の信仰が結果を生じないことは決してないからである。私の心は次のことを納得している。すなわち、神の子供たちの多くは信仰と信条の違いを見ることに失敗しているのである。癒しを信じることと、癒しのための信仰を持つこととは、全くの別問題なのである。

 こういうわけで、こんなにも多くの困窮した信者たちが、主の約束と御言葉に基づいて主のもとにやって来て、自分が癒されたことを何度も何度も何度も確認しようとするのである。


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