初代教会は自分たちの権威をどのように用いたのか

 使徒行伝は主として私たちの教科書である。それは、イエスの御名による勝利の一連の物語である。

 新たに天から賜った権威を人々が用いた最初の記録――麗しの門のところにいた無力な人の癒し――が第三章にある。使徒たちは何と静かに確信をもって、「ナザレのイエス・キリストの御名によって立ち上がって歩きなさい」と言ったことか。神がどう応答して、この人が癒されたことか。その都がどれほど再び揺れ動いて、ユダヤ教が震撼したことか!使徒たちは捕らえられ、御名を用いることやそれを宣べ伝えることを禁じられた。この御名の中には力がある。イエスは地上におられた時、使徒行伝に記されている御名を通してなされた奇跡よりも大きな奇跡を行われなかった。

 ペテロが一人の男と女を死なせて倒すのを、この書の中に私たちは見る。癒す力と屠る力――これは恐るべき力である。彼らはイエスから賜った権威の全能の力によって歩んでいた。彼らはイエスの御言葉を真剣にとっていた。神の御言葉は真実であると見なして、行動していた。

 神のこの恵みの爽やかさの中を歩んだ人々について述べるには紙面が足りない。パウロが敵対者たちの目を見えなくするのを、私たちはこの書の中に見る。彼が霊媒から悪鬼どもを追い出すのを、私たちは見る。彼がまむしに噛まれても害を受けないのを見る。病人は癒され、死人はよみがえらされるのを見る。異教の諸々の都が、ユダヤ人の知られざる神に向かった。

 三十三年という短い年月のうちに、この福音は、御名の力によって支えられて、普通の人々の手により、ローマ世界の至るところにもたらされた。パウロが触れた前掛けやハンカチが送られて病人の上に置かれると、パウロ自身が行うのと同じ力強い奇跡が起きたのを、私たちは見る。

 この人々は私たちと同じ体の中に生きていた。私たちと同じ気性を持ち、私たちと同じように間違いを犯した。しかし彼らは、悪鬼どもや病気に対するこの神から賜った権威により、諸々の奇跡を行った。彼らは私たちと同じ気性を持つただの人だった。何が私たちを妨げているのか?なぜ私たちは弱さではなく力の中を歩まないのか?

 パウロは、ある人の体を滅ぼすために、その人をサタンに引き渡すことができた。ヒメナヨとアレクサンドルについても同じことを行った。それは、冒涜してはならないことを彼らが教わるためだった(一テモテ一・二十)――「その中にヒメナヨとアレクサンドルもいます。私は彼らをサタンに渡しました。冒涜してはならないことを彼らが教わるためです」。

 当時、宣教者たちは危険だった。クリスチャンたちは自分の主張を証明する力を持っていた。彼らは宣べ伝え、実行した。善を行った。今日、ある人々が言うように、「彼らは善を解き放った」のである。

 彼らの信仰は言葉だけのものではなく、顕現と力を伴っていた。当時、奇跡は当たり前だった。彼らの時代、キリスト教は奇跡だったのである。


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