ヨハネ十四・十三~十四、十六・二十三~二十四「あなたたちが私の名によって求めるものは、何でもしましょう。それは父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたたちが私の名によって求めるものは何でも、私はそれをしましょう」。

 この御言葉は他の御言葉とは異なる方法で祈りについて述べている。祈りとは御父のもとに行って嘆願することではなく、主人の地位に立つことである。主の権威を用いて悪鬼を追い出し、病人を癒すことである。逐語訳はこうなる、「もしあなたたちが私の名によって何かを要求するなら、私はそれを行いましょう」。主の地位にあって、私たちは御名の権威により病気と悪鬼どもに去るよう要求する。主はその場に臨在して、私たちが語る言葉を御力によって確証して下さる。この御言葉が述べているのは、主がマルコ十六・十七~十八で私たちに賜った権威を私たちが行使することについてである。

 さて、ヨハネ十六・二十三~二十四に注意せよ。「あなたたちが私の名によって父に求めるものは何でも、父はあなたたちに与えて下さいます。その日には、あなたたちは私に何も求めないでしょう。まことに、まことに、私はあなたたちに言います、あなたたちが父に何かを求めるなら、父はそれを私の名によってあなたたちに与えて下さいます。これまで、あなたたちは私の名によって何も求めてきませんでした。求めなさい、そうすれば受けるでしょう。それはあなたたちの喜びが満ちるためです」。これはイエスの御名によって御父に祈ることである。

 この御言葉が示しているように、今この宇宙で最高の権威の座に着いている力強い神の御子は、御名の力・権威・権力をサタンや悪鬼どもとの地上での戦いで用いる代理人としての法的権威を私たちに与えておられる。この強力な事実を前にするとき、霊的貧困や弱さは犯罪的である。力と権威を伴う天のすべてを私たちは自由に使えることを、この御言葉は示している。

 これは信仰を持とうと努力することではない。自分の着ている服が自分のものであるのと同じように、この法的権利は自分のものであることを理解することである――あなたが眠るベッドがあなたのものであるように――あなたがかぶっている帽子があなたのものであるように、すべてはあなたのものである。法的に、幸いにも、あなたのものなのである。

 御名を用いる権利をあなたに賜った人なる御方がガリラヤを歩かれた時、サタンはこの御方の前に立つことはできなかった。それと同じように、サタンは今も御名の前に立つことはできない。御名の持ち主である御方が、人の子として、地上を歩かれた時、病は無力だったように、今も御名の前では病は無力である。イエスの時代に悪鬼どもが御名を前にして屈服したように、悪鬼どもは今日も、神と共に歩む人の口が語る御名を恐れている。

 地獄全体が御名の力を知っている。私たちの法的権利と権威を知っている。だから、自分の法的権威について無知な状態の中に私たちをとどめておくために戦っているのである。あるいは、私たちが自分の法的権威を知っている場合、私たちを罪定めの下にとどめておくために、私たちに自分の法的権利をあえて使わせまいとするのである。


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