第一に、十字架は死として述べられている。死の光景は常に印象的である。しかし、この死は普通の死では全く無かった。この人は死ぬ必要がなかった。死ぬことを選んだ方がそこにいたのである。彼の最高の任務は死ぬことだった。彼の十字架上に、アダムの種族に属する全員が、「彼は私のために死んで下さった」と書き記すことができる。

 これは死の光景以上のものである。磔殺は最も厳しい死罪としてローマ人が選んだものであり、それには二つの理由があった。磔殺は最も苦しく、最も惨めだったからである。苦しみの中、筋肉は張り詰めて極度の緊張状態に至る。無力な体は引き裂かれた肉体の自重で吊り下がり、激しい苦しみで徐々に死んで行き、傷つかない生体器官は何もない。彼は盗人たちの間に盗人として吊されたのである。

 彼の死は自発的だった。たった一つの言葉や行動で彼は百万の天使に命じることができた。そのどの天使も彼を救えただろう。「良い羊飼いは羊のために命を与えます。私にはそれを捨てる力があり、取り戻す力もあります」。彼が「成就した」と言われるまで、死は訪れることができなかった。人の性質は最悪の敵として死から逃げるのが普通である。しかし、他者のために自分の命を捨てるというこの一つの至高の目的を生涯貫いた人がここにいた。

 彼の死は受難であり、受難は苦しみを意味する。彼は死に至るまで自分の魂を注ぎ出された。彼の苦しみは激しかったに違いない!

 これは辛苦とも述べられている。辛苦は人の苦しみの最も最も厳しい形である。

 これは逝去と述べられている。逝去は死以上のものである。馬は死ぬが、決して逝去しない。逝去は去ることを意味し、未来の命、活動の継続という思想を伝える。これが意味するのは、彼は別の領域に移り、死の門を通り抜けて、さらに高くさらに栄光に満ちた務めに入ったということである。

 また、彼の死は植え付けとも述べられている。「もし私たちが彼の死の様の中に共に植えられているなら、彼の復活の様の中にいるようにもなります」――ローマ六・五。植え付けは葬式ではなく庭を示唆する。

 われわれは自分の愛する者たちの命無き遺骸を暗い墓の中に葬るのではない。むしろ、「この種は芽生えて、十倍美しい芽、花、実となる」と確信しつつ、生ける種を手放すのに似ている。

 彼の死は高揚と称されている。モーセが荒野で蛇を揚げたように、十字架は全世界が彼を見ることができるようになるために揚げられることである。

 彼の死は成就であり偉大な勝利である。彼はサタンと対戦して征服し、その王国を打ち倒された。だから、われわれは小羊の血を通して勝利者とされるのである。

 それは和解だった。十字架は新創造の記章である。ここで加害者と被害者は会って握手する。それは今も将来も、永遠にわたって常に、霊感を与え続けるのである。

(誌面からの再刷、一九三二年十月二十日)


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