祝福の一つの頂に登ると、その向こうに次の頂が見えてくる。進み続けるなら、われわれはアクサの祝福に至る。アクサは結婚する時、父親のカレブに自分の正当な嗣業である南の土地だけでなく、上と下にある泉をも要求した。彼女の土地は南の地で焼け付く太陽の下にあり、燃えるような熱でしばしば干上がった。しかし、山々から冷たい爽やかな水が流れてきて、その土地を肥沃にしたのである。低地の泉が役に立たず、貯水池や湿地が干上がっても、彼女には上と下にある泉があり、その泉は決して欠乏することがなかったのである。

 だから、われわれの地的喜びが役に立たず、地的資源は干上がり、この悲しみの低地の泉や貯水池がすべて役に立たなくても、われわれには依然として上なる泉がある。上から流れてくる喜びや祝福があり、酷暑の夏の間、悲しみと試みという荒れ果てた地にも流れるのである。状況がいかなるものでも、われわれは常に上なる泉を見つけることができる。アブラハムはモリヤ山上でも上なる泉を見いだすことができた。モーセはメディアの山々で見いだした。ダビデはジクラグの廃墟で見いだした。ダビデは主にあって奮い立った。ハバククは、イチジクの木が役に立たなかった時、自分の泉を見いだした。彼は雲の彼方から飲み、とうとう歌えるようになった。詩篇作者は最も暗い日に上なる泉を見いだし、とうとう歌えるようになった。その歌を聞け、「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせる」。パウロとシラスは真夜中にピリピの牢獄の中でそれを見いだした。彼らが歌うと、牢獄の扉が開いた。ジョン・バンヤンはベッドフォードの牢獄でそれを見いだした。メアリー・ダイヤーはボストン公園でそれを見いだした。

 確かに、過去の達成に安んじるのは容易である。しかし、祝賀の冠は前進する者たちに与えられる。われわれは自分たちの古い測り縄をすべて越えて身を伸ばさなければならない。神のために最善のことを成し遂げた人々は、すべての境界線を突き抜けたのである。アブラハムは神のために開拓した。ヨナはニネベへの最初の宣教士だった。アウグスチヌスはサクソン人の間で、オスカーはスエーデンで、ルターは改革の働きにおいて、ミュラーは信仰において、フォックスは深い霊性において、ホィットフィールドは野外説教において、ウェスレーは歌において、カーレイは宣教において、ブースは大衆に関して傑出していた――この人々は昔ながらのワンパターンに安んじることができず、突き抜けて、新しい広い水路を切り開いたのである。しかし、自己を否む宣教士の自己犠牲について、われわれは今日門外漢である。われわれが与えうるものに不足しているせいで他の人々は地獄への道に群がっているというのに、ここに座して安楽にしているどんな権利がわれわれにあるというのか?


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