あなたの状況は言葉ではなく行動を要するものであることを、私は喜ぶ。一組の規則よりも心理的知識を促す孔子の教えは、モーセの律法のように、キリストとその王国の基礎として適しているように私には思われる。儒教には、モーセの律法より統一がとれていて首尾一貫しているという長所さえある。モーセの律法は、ユダヤ人でない者を冷酷に殺害することを正当化するために用いられてきた。(もちろん、これはモーセの律法の酷い誤解である――預言者たちはユダヤ人だけでなく、すべての諸国民のために熱心だったのである。)

 悲しいことに、神が不敬虔な者の上に下すとされている、怒りと滅びに関する観念が、クリスチャンたちの間に広まっている。これは、新約聖書が明らかに教えている神の愛と、真っ向から矛盾する。私たちが反対している事柄に照らして見る時、パウロが(彼の手紙を私は大事にしているが)ローマ人への手紙の中でこの怒りの観念を表明しているのを、私は残念に思う。無数の支配者たちが、パウロの言葉をねじ曲げて、キリスト教宗教を殺害のために剣をふるう根拠としてきた。彼らは楽しんでこれを行うのである。

 しかし、神に導かれている人や、敵をも敬うことが性分となっている人(中国人の「異教徒」も含む)を敬い、受け入れるよう、私たちは注意しなければならない。中国のいわゆる「少女殺人」について――その広がりや理由について――もっと聞きたいと私は思っているが、私が素晴らしいと思うのは、中国人が家族を通して道徳観を教え込もうとしているそのやり方である。中国人は人生の諸問題に極めて現実的に取り組んでいる。道徳的規範が雲をつかむようなものではなく、まさにしっかりと地に足がついている。それゆえ、誰でもそれらを適用できるのである。

 「私が律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。私が来たのは、それらを廃するためではなく、成就するためである」(マタイ五・十七)とイエスは言われた。イエスの御名の中で異国の地を訪れる時、成就されることを待っている律法がすでに存在していることを、私たちは神に感謝すべきである。それとも私たちは、まず人々をモーセの律法で叩きのめさなければならない、と思っているのだろうか?そのようなことは神を踏みにじることである。神の御霊は、私たちクリスチャンが現れるずっと前から、働いてこられたのである!

 中国人の諸々の慣習を支持することに、不安を抱いてはならない。自分たちの歴史の中に働いてこられた神の働きに――たとえ神の御名は述べられていなくても――敬意を払う人々の慣習の場合はなおさらである。明確な行動と神の祝福により、あなたは真理に基づく関係を造り出している。それにより、人々の目は開かれるだろう。法律や正義を、それがいかなる形をとったとしても、イエスがまさにそうされたように履行することが、あなたの義務である。あなたが行うこの自由な活動は、あなたが与えうるいかなる説教にもまして、遥かに強く人々に訴えかけるだろう。あなたがこれを行えば行うほど、すべての父親たちの父、人々の間に見つかるすべての良きものの創造者に対する敬意が増すだろう。誰も、人々の間にある神から出ているものを敬わずに、神を敬うことはできない。


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