バプテスマの問題に関しては、私が述べた精神を持て――それを決して原則の問題にしてはならない――そして、個々の事例に関して自由に行動せよ。あなたの状況は使徒パウロの状況に似ているように私には思われる。使徒パウロにとって、バプテスマは重要ではなかった(一コリント一・一四~一七)。パウロはバプテスマを他の人々に任せたのである。あなたが同じ事をしているのを、私は嬉しく思う。イエスが犠牲の慣習を軽蔑されなかったのとまさに同じように、諸教会の慣習的実行を軽蔑してはならない。しかし、私たちの目標は、古い世界から退いて、新しい世界に踏み出すことである。神のバプテスマが御霊のバプテスマのみになる時が来るだろう。

 それまでの間、あなたが個々の人を祝福して、それでバプテスマを施したと考えても構わない。ただしそれは、その祝福を受けた人々が「自分はこれを他の人々に押しつける権利を受けた」と考えない場合に限る。これが私が言わんとしている要点である。有害なのは外面的実行それ自体ではなく、それがしばしば引き起こす傲慢、高ぶり、他者からの分離である。それに対して、神の御霊のバプテスマは、私たちを万民の兄弟とする。機会が訪れたなら、必ずこれをあなたの聴衆に話すようにせよ。そうするなら、人々は神により、神の御名の中にバプテスマされることができる。

 回心した中国人があなたのところにやって来て、バプテスマを求めることがあるかもしれない。もしその人がこれを自ら純粋な動機で行うなら、その時はイエスの弟子たちの模範に従って、その人をバプテスマせよ。私たちが出かけて行って人々をバプテスマすることと、キリストに対する忠誠を公にすることを願って個々の人が私たちのもとに来ることとは、別のことである。それでも、私たちの任務は宗教的実行を推進することではなく、教え、愛することである。私たちがキリストの霊の中で労していること、私たちは決して他のグループに加わる邪魔をしないことを、人々は知るようにならなければならない。

 もう一度言う。何をするにせよ、バプテスマのせいで区別――「聖」なる者と「神なき」者との区別――を設けさせてはならない。むしろ、静かに祈る時とせよ。大いに自由に導かれるのに任せよ。あなたは、いかなる時も重要なものを見抜くことができる、唯一の人である。あなたが神の使者であり続けて、失われている人のために神の愛を宣べ伝えるよう、私は祈る。神の愛はクリスチャンのものであるのと同じくらい、未信者のものでもあるのである。


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