秘蹟に頼ることがどれほど間違っているのかを、キリスト教の歴史全体が示している。人々は洗礼、堅信礼、祝福を受け、祭壇で聖別されるが、それが済むとまるで何事も無かったかのように駆け去って行き、すぐ近くにいるおしゃべりや詐欺師の仲間に加わってしまう。秘蹟は団体を一つに保つ糊ではない。それどころか、神の介入から遠ざかれば遠ざかるほど、秘蹟がますます強力に推進されるようになるのである。

 私が見るところ、水のバプテスマは必要悪である。人々がキリストのからだに加われるようになる何か別の方法を、私は個人的に望んでいる。いかなる外面的形式もそれを生み出すことはできない。それは御霊によって与えられなければならない。バプテスマという外面的象徴を重んじる人々は、自分はバプテスマされていない人よりも優れていると思っている。しかし御霊の人々は、バプテスマされることを滅多に認めない。あなたは、イエスが理解されたように、これを理解しなければならない。イエスは弟子たちに向かって(彼らはみなバプテスマを受けていた)、「あなたたちも私から去って行きたいのか?」(ヨハネ六・六七)と尋ねることさえされたのである。この一つの外面的行動を強調することが大切であるとあなたが考えるなら、きっと人々が駆け寄ってきてあなたに組みするだろう――しかし、彼らはすぐにまた駆け去って行ってしまうだろう。

 いっそう広い視野を得る唯一の道は信仰によることを、あなたも私も知っている。これまで見てきた諸々の方法で人々を集めることに神を制限するなら、その時、神の王国は失われる。イエスは命のない偶像ではない!イエスは命であり、古いものから新しいものへと、絶えず前進しておられる。危機的な時が何度も訪れるだろうし、真のイエスから去ってしまう危険に誰もが陥るだろう。たとえ百回バプテスマされたとしても、これを防ぐことはできない。イエスと同じ精神でなければならないのである。

 未熟な諸教会のために使徒たちがどのように戦ったのかを思い出せ。一日に三千人バプテスマしても、それは少しも使徒たちの助けにはならなかった。この初期の頃、あまりにも多くの者が忠信であり続けることに失敗した。そのため、ヘブル人への手紙のように、厳しいことを書かなければならなかったのである(ヘブル六章を見よ)。アナニヤとサッピラの後(使徒五・一~一一)、悪いのはバプテスマを施す私たちであって、まちがってバプテスマを受けた人々ではないことは、もはや明らかである。

 「神は世を愛された……」(ヨハネ三・一六)ことを忘れてはならない。バプテスマせずに、イエスの御名の中で未信者たちと交際できるというのは、実際のところ奇跡である。結局のところ、諸教会が施すバプテスマは、クリスチャンたちとそれ以外の人類との間に憎しみを引き起こしている。神の御霊は、敬虔な人々の助けなしに、天から地に流れ下らなければならない。御霊は必要なことをなすよう人々に強いる――それゆえ、人々は「主よ、いつ私たちはあなたにお仕えしたのでしょう?」(マタイ二五・三七)と遂には言うだろう。確かに、今日も、神の王国のために、教会の外で、多くの働きが進んでいるが、人々はそれに気づいていない。


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