人生の最後の時にあったパウロは、そうなりたいと最初に望んだ通りの者ではなかったでしょうか?彼の最初の手紙であるテサロニケ人への手紙を読むと、教会と共に携え挙げられることが彼の考えであり希望だったことに疑いはありません――「……私たち生き残っている者たちは、携え挙げられるでしょう……」。多くの年月が過ぎ去って、人生の最後に向かいつつあった時、自分の去り方はそうではないことを彼は理解するようになりました。そこで、率直に言いました。「……私はすでに献げられています。私が去る時が来ようとしています」。どのような方法でそうなるのか彼は分かっていました。しかし霊的に彼の内なる命においては、最初に願った通りに、彼は最後に本当に携え挙げられたのです。それは死ではありませんでした。敗北ではありませんでした。死の支配ではありませんでした。死に対する勝利であり、死を征服したのです。それは栄光でした。彼は完全な確信と完全な勝利のうちに突き進むことができました。霊の中で叫びつつ突き進むことができました――「イスラエルの戦車よ、その騎兵よ!」。彼はすべてを超越していました。行程がいかなるものであれ、復活の命は携え挙げそのものの化身です。ですから、文字通り戦車で上ったエリヤであれ、霊的に戦車で上ったエリシャであれ、その結果は同じことなのです。

 しかし、それ以上のことがあります。パウロは復活の二つの相を心に思い描いて信じていました。第一に、彼は内なる復活を持っていました。復活の命が彼の中で常に働いていました。ですから、死の働きをすべて超越していました。霊の中で彼は常に死を超越していました。復活の力を内なるものとして知っていたのです。

 しかし、第二に、彼はその結果の特別なある形の上に、自分の心を定めて信じていました。彼だけがそれを「死者の中からの格別な復活」と呼びました。このようなものを見せてくれるのがパウロです。彼の願いと志は、たんに死者の中からの復活に達することではありませんでした。もしあなたが救われているなら、達成したことが何もなくても、死者の中からの復活を享受するでしょう。永遠の命を持っているという事実が、あなたが死者の中から復活することの保証です。与えたいと思う者に永遠の命を与えて、終わりの日によみがえらせることを、主イエスは完全に明らかにしておられます。しかし、終わりの日に先立つある日があります。その日はパウロが追い求めていた日です。彼が述べたのは終わりの日の復活ではなく、死者の中からの格別な復活です。これは彼にとっては携え挙げを意味しました。主の民全員がこれに与るわけではありません。ピリピ三・十には意味があり、その言葉は真剣に受け止めるべきものである以上、これは次のことを極めて明確に示しています。すなわち、この復活は永遠の命の賜物と共に与えられる一般的復活ではなく、賞なのです。死者からの一般的な復活は賞ではありません。神の無代価の賜物に伴うものです。賞は常に、パウロが完全に明らかにしているように、そのために働き、追い求めるべきものであり、失うおそれがあるものです。この格別な復活は、彼がそれに向かって懸命に身を伸ばした賞です。

 ここでこの章の第一局面が終わります。そして、第二局面が必要になります。なぜなら、一本の矢の後に他の矢が続かなければならないからです。


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