繰り返しましょう。この最後の敵である死は、教会の中で、また教会によって、決定的かつ完全に打ち倒されます。これは、キリストのからだである教会の中に働く主イエスの復活の命に基づきます。こういうわけで、あなたも私も今、復活の命の基礎に基づいて生きることを学ぶ必要があります。これが、主がわざわざ私たちを、御自分の復活の命だけが私たちの必要を満たせる所に連れて行く理由です。これが、主の命以外の他の命の基礎をことごとく私たちの足下から断ち切るために、常に十字架が適用される理由です。これには重大な結果が絡んでいるからです。すなわち、教会は選ばれた手段であって、これにより復活したかしらは死の問題に最終的決着をつけるのです。

 これは私たちをエリシャのこの物語の興味深く意義深い点に導きます。イスラエルの王がエリシャにどのように呼びかけているのかに気づいたしょうか?十三章十四節を見て下さい。驚くべき呼びかけであることがわかります。王は何を言わんとしたのでしょう?エリシャはエリヤと同じ道を行くものと期待していたのでしょうか?エリシャがまさに携え上げられようとしていることについての感慨を述べたのでしょうか?ヨアシの観点からは分からないことを、私は告白します。しかし、聖霊の側に立って何かを見ることはできると思います。なぜなら、これが聖霊の霊感によるものである以上、そこにはある霊的意義があるからです――「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ!」。これは死に対するエリヤの勝利でした。この形の勝利はエリシャにはありませんが、同じ言葉が述べられています。エリシャはエリヤのように火の戦車によって天に上ったわけではありません。それにもかかわらず、まったく同じ言葉がエリシャにもあてはまります。彼は死を征服して死によって征服されなかった人々と同じ列に連なりました。しかし、その違いは何でしょう?エリヤが外面的に携え挙げられたのだとすると、エリシャは内面的に携え挙げられたのであり、これは同じ事だったのです。復活の命はいかなる場合も携え挙げという結果になります。その結果は勝利です。それは死に対する勝利であり、死に対する勝利は携え挙げです。携え挙げとは何でしょう?栄光です!携え挙げの原理と基礎――それはキリストの復活の力です――に関する限り、その外面的結果の如何にかかわらず、これは成り立ちます。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ